欅(けやき)の木陰にて憩う
七
数人いる中で、彼は真っ先にこちらに近づいてきた。
そして梨夜の腕を強くつかんだ。
「はなしてください!」
梨夜はそう叫ぼうとした。
だがその途中で、口元を海靖の手で覆われてしまった。
「静かに」
「……!」
大きな手で覆われては、もう何を言っても無駄だ。
それでも梨夜は、とにかくはなしてと体をよじらせた。
だがそうすると、海靖は梨夜を抱きすくめたのだ。
「静かに。まずはこちらの話を聞きなさい」
……話?
自分を捕まえに来たのではないのだろうか?
梨夜が静かになると、海靖はそっと彼女から腕をはなした。
腕を解き、口元からも手を離した。
海靖と一緒にいたのは、彼が信頼している側近ばかりだった。
よく見ると、海靖はもちろん誰も明かりを持ってはいない。
さらに海靖は今、剣は身につけているが甲冑を着用してはいなかった。
「浅瀬を渡るつもりなのだろう?」
海靖の問いに梨夜がうなずくと、彼は言った。
「我々も渡るつもりだ。一緒に行こう」
「え…」
どういうことだろうか?
この浅瀬の向こうは、劉義法の陣営なのに。
「思っていたより早かったな。おまえの天幕を見たら空っぽで…」
海靖は低い声でそう話しながら、梨夜の腕を取った。
話している言葉はわかった。
だが、それが何を意味しているのか、梨夜にはわからない。
わからないでいると、次に梨夜の体はふわっと宙に浮いていた。
海靖が抱き上げたのだ。
梨夜は海靖の両腕の中に抱えられ、川を渡り始めた。
はるか下のほうから、水音が響いてくる。
渡り終えたところで、海靖はそっと地面に下ろしてくれる。
「濡れなかったか?」
「……」
訳のわからないままうなずくと、海靖はそれならいいとこちらもうなずいた。
そして梨夜の背を押して歩き出した。
歩き出すとすぐにたいまつを持った兵士が近づいてきた。
劉義法の軍の者だった。
「誰だ!」
「見慣れない顔だな」
すぐに三々五々と兵士たちが集まってきて、剣が突きつけられる。
そうされると海靖は、梨夜を自分の背後に隠すようにしてくれた。
そして、兵士たちに向かって言ったのだ。
「劉義法に会いたいのだが」
だが兵士たちは、海靖の顔など知らないのだった。
「怪しいやつらだ。劉さまにご報告を」
兵士たちはまず、海靖たちから剣を取り上げた。
だが海靖もその側近も、何も抵抗しない。
まるでこれは、初めから予定通りのことであるように、されるがままになっている。
周囲には次々に兵士たちが集まり、すぐに数十人になる。
それぞれが持つたいまつが明々と照らされ、まるで昼のように明るくなる。
突きつけられた刃が、たいまつの光に異様にきらめく。
だがそんな中でも海靖は、梨夜をかばうようにして立ったまま微動だにしない。
数人がどこかへ駆けて行ったかと思うと、やがて一人の人間を囲むようにして戻ってきた。
その中年の男性の顔に、梨夜は見覚えがあった。
「劉さま!」
それが劉義法だった。
梨夜が海靖の陰から姿を見せると、劉義法は目を見開いた。
「もしや梨夜?梨夜か?」
「はい。お久しぶりでございます。王渓長の娘の梨夜でございます」
そして彼はすぐに、海靖のこともわかったようだった。
「海靖さま!」
そして彼は言ったのだ。
「まさか、本当にいらっしゃるとは…」
「直接話をしたほうが、おまえも信用できるだろうと兄上が」
「皇太子さまが?ああ、おまえたち、早く剣を下ろせ。この方は怪しい者などではない。さあ、ではとにかくこちらへ」
劉義法は兵士たちに道をあけるよう命じると、海靖の先に立って歩き出した。
それまで海靖たちを取り囲んでいた兵士の何人かが、明かりを手についてくる。
奪った剣もすぐに側近の手に返される。
海靖は、劉義法の後から歩を進めた。
梨夜の背を押しながら。
背中を押されなければ、梨夜はその場に突っ立っていたかもしれない。
だって、なぜ海靖が、劉義法のもとを訪れるのだろうか?
彼は、劉義法を討つために、わざわざここへ来たはずではなかっただろうか。
歩きながら劉義法は、梨夜に話しかけた。
「おまえが無事でよかった。陛下はおまえのことを探しているそうではないか」
「はい。ですが海靖さまが…」
「そう、確かに皇太子さまから、おまえの無事は聞いてはいたが」
皇太子から、とは?
まるでこれまで、連絡を取っていたような言い方ではないか。
劉義法は、一つの広い天幕に海靖を案内した。
そして中にあった椅子を勧めた。
そこに座る前に海靖は、劉義法に一通の書状を手渡した。
「兄上からだ」
書状を受け取った劉義法は、自分は海靖の前に立ったままそれに目を通し始めた。
梨夜はよくわからないものの、ひとまず隅に控えていた。
書状は、海靖が言ったとおり、皇太子からのものだった。
読み終えた劉義法は、それを丁寧にたたみなおすと、海靖の前にひざまずいた。
「わたくしなどにもったいないお言葉でございます。喜んで仰せの通りにいたします。今の今まで、わずかとはいえ疑っていた自分が恥ずかしくてなりません」
「疑うのももっともだ。恥ずべきことではない。だから私が直接来たんだ」
海靖はそれをおそらく、梨夜に向かって言った。
「これで国内の軍はすべて、父上を討つことを目指すこととなった」
「…どういうことでございますか?」
梨夜の言葉に、劉義法が振り返って答えた。
「海靖さまは、初めからそのおつもりで軍を率いてここまでいらしたんだ。
皇太子さまは、おまえの父親の件で、陛下のなさりようにはもう我慢がならなくなっていらした。海靖さまもだ。
ここまで来たら強制的に退位させるよりほかないが、軍を動かせば、さすがに陛下にすぐに筒抜けだ。
そこへ我々が挙兵するという話を耳にされた皇太子さまは、一計を案じた。
我々を討つという名目で軍勢を集めたあと、その軍を我々と合流させて陛下を討とうとおっしゃるのだ。
初めにこのお話をうかがったときには信じられなかった。正直言って、今でも信じられない思いだ。
だが、現にこうして海靖さまはここにいらっしゃる。しかもおまえまで連れて」
「……」
梨夜は海靖を見つめた。
海靖は、静かに目を伏せている。
こういうことだったのだ。
「海靖さま…」
「話さなくて済まなかった。話そうと思ったが…」
「いいえ、当然のことでございます」
計画を他人に話せば話すほど、どこから漏れるかわからない。
国の行く末を左右する大事なことなのだから、秘密裏に事を運ぶのが当然だ。
「それよりも、知らぬこととはいえ、わたしはずいぶんと失礼なことを…」
海靖は首を振った。
「それこそ当然だ」
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