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欅(けやき)の木陰にて憩う

「今は緊急のお知らせをお持ちいたしました。響州で、長官の劉義法が挙兵したそうです」
「挙兵ですって?」
「父上を誅するためにです」
海靖の言葉に皇太后は、目を丸くして彼を見つめた。
「劉義法は王渓長とは古い知り合いだとか。王渓長の一件で、父上のこれまでのなさりように対する堪忍袋の尾が切れたとか。その兵は次々と勢力を増しながら都に向かっているそうです」

「……そう」
一時の驚きの波が過ぎ去ると、皇太后は静かにうなずいた。
その落ち着いた様子は、梨夜の目から見てそれこそ驚くほどだった。
さらに皇太后はつぶやいたのだ。
「仕方のないことだわ」
「皇太后さま…」

そう考える皇太后になら、梨夜は言い出せると思った。
ここを辞め、自分も反皇帝の軍に参加したいと。

だがその前に、海靖は言ったのだ。
「それでおばあさま。その知らせを受けた父上は、王渓長の娘を探し出すよう命じたそうなんです」
「え?」
皇太后の声とともに、梨夜も改めて海靖を見つめた。
海靖は、続きを梨夜に向かって言った。

「誰かが父上のお耳に入れたらしい。王渓長には娘が一人いたこと、その娘を人質に取れば、劉義法も強くは出られないだろうと」
「そんな…」
梨夜は一瞬たじろいだが、すぐに海靖に向かって言った。
「では、ちょうどようございました。わたしは、劉義法さまの軍にはせ参じたいと思っておりました。いますぐにこちらをおいとまいたします」
その言葉は海靖にとって予想していた通りのものだったらしい。
皇太后は驚いたようだったが、海靖はまったく表情を変えなかった。
「気持ちはわかるが、それは危険だ。劉義法の軍はまだ都からは遠い。着くまでに何に巻き込まれるかわからない。それに父上はすぐに、おまえがここにいることを探し出すだろう」
「皇帝に捕らえられるくらいでしたら、道中で野垂れ死にしたほうがましです」
梨夜がそう言い放つと、皇太后が悲鳴を上げた。
「やめて梨夜、そんなことを言うものではないわ」
「皇太后さま…」
「命は大切になさい。そうでないと王渓長だって悲しむわ」
そう言われると、梨夜には何も言えなくなる。
「ああ海靖、ではどうしたら。確かに、陛下だってすぐにこの子がここにいることをお知りになるわ」
「おばあさまは、何もご存じないとおっしゃってください。おばあさまがそうおっしゃれば、父上とて何もできないでしょう。この子は私が引き取ります。私の屋敷にいれば大丈夫でしょう。兄上もご承知です」
「海靖の屋敷に?それなら…」
皇太后は安心したようにうなずいた。
「じゃあ早いほうがいいわ、梨夜、早くここを出なさい。ひとまず海靖の屋敷に。あなたに何かあったら」
と、皇太后がそこまで言ったとき。

扉の外が急に慌ただしくなった。
「失礼いたします」
侍女の声がした。
「皇太后さま、陛下からのお使いの方がお見えでございます。皇太后さまに急ぎご確認したいことがおありだそうにございます」
「きっとこの娘の件でしょう」
海靖が言う。
「おばあさま、では私は、今はこれで失礼いたします。この子のことは責任を持ってお預かりいたしますから」
そう言うやいなや海靖は梨夜の背を押すと、何事もないかのように扉を開けた。
そこには二人の男性がいたが、海靖を見るとはっと頭を下げた。
「これはこれは、海靖さまがお越しだったとは」
「おばあさまに用があるのだろう?私の話はちょうど終わったところだから」
海靖は梨夜に、ついてくるよう目でうながすと、平然と部屋を出た。
そんな海靖を、二人の男性は丁寧に見送る。

庭を歩き始めた海靖のもとに、側近らしき人間がすぐに近づいてくる。
「海靖さま、仰せの通り馬車はあちらに」
庭の片隅に、馬車が用意されていた。
海靖は、梨夜に乗るよう促すと、自分もその隣に乗った。
側近が手綱を握り、馬車は動き出す。

馬車が動き出しても、海靖は無言だった。
梨夜もまた、自分の膝だけを見つめていた。
膝の上に置かれた自分の手だけを。

門を出たところで、海靖は口を開いた。
「おまえにとっては不満だろうが、しばらくは私と行動をともにしてもらう」
行動をともに、という言い方に、梨夜はちらっと海靖を見やった。
何をするというのか。
「挙兵の知らせを受けた父上は、即座に平定の軍勢を送ることをお決めになった。私は、その軍勢を自ら率いるつもりだ」

なんということだろうか。
劉義法を倒すために、この皇子は、自ら軍を率いるというのだ。
そんな皇子と、行動をともにしろと?
「下ろしてください!」
梨夜は叫んでいた。
「わたしは、そんな方とは一緒にはいられません!」
そして、馬車の扉を開けようとした。
「やめなさい!」
海靖は慌てて、梨夜の体を引き寄せた。
二本の腕が、しっかりと自分に回される。
逃れようとしたが、海靖の力にかなうわけはなかった。

自分には、何もできないのだ。
父親が殺されても、何もできない。
父親のかたきも討てない。
それだけではない。
あろうことか、父親のかたきを討ってくれようとする軍勢、それを抑えようとする人と一緒にいるなんて。
こんなに情けないことなんかない。
自分は何もできない。

あまりの情けなさに、梨夜の目から涙がこぼれた。
梨夜が泣いていることに、海靖はすぐに気付いたようだった。
腕をはなそうとしていた彼だったが、涙に気付くと、梨夜を抱き寄せた。

梨夜はもう、なされるがままだった。
あらがう気にもなれなかった。
そういう気も起こらない。
ただただ、泣くことしかできなかった。
あふれた涙は次々に海靖の服に吸い込まれて消えてゆく。

耳元で声がした。
「決しておまえに悪いようにはしないから」

悪いようにはしない?
とはいえこれ以上、何がどう悪くなるというのだろう。
いま以上に悪いことなどないではないか。

やがて馬車が静かに停まった。
海靖は、梨夜からそっと腕をはなした。

一度あふれた涙は、そう簡単には止まらない
梨夜はそれでも必死で涙をこらえ、袖口で目元をおさえた。

彼の屋敷は、広々としてはいたがやや殺風景だった。
彼は梨夜を侍女に託すと、客用の部屋に案内させた。
「ゆっくり休みなさい。…すぐに出立だろうが」
出立とは、出軍のことだった。

案内された部屋は、綺麗な調度品も飾られてはいたが、華やかさというものはなかった。
華美な装飾を好まないというのが、おそらくは海靖の趣味なのだろうと思われた。
一人になると、梨夜の目からは再度涙がこぼれた。
そして今度こそ、思う存分泣きつくした。


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