欅(けやき)の木陰にて憩う 四 「今は緊急のお知らせをお持ちいたしました。響州で、長官の劉義法が挙兵したそうです」 「挙兵ですって?」 「父上を誅するためにです」 海靖の言葉に皇太后は、目を丸くして彼を見つめた。 「劉義法は王渓長とは古い知り合いだとか。王渓長の一件で、父上のこれまでのなさりように対する堪忍袋の尾が切れたとか。その兵は次々と勢力を増しながら都に向かっているそうです」 「……そう」 一時の驚きの波が過ぎ去ると、皇太后は静かにうなずいた。 その落ち着いた様子は、梨夜の目から見てそれこそ驚くほどだった。 さらに皇太后はつぶやいたのだ。 「仕方のないことだわ」 「皇太后さま…」 そう考える皇太后になら、梨夜は言い出せると思った。 ここを辞め、自分も反皇帝の軍に参加したいと。 だがその前に、海靖は言ったのだ。 「それでおばあさま。その知らせを受けた父上は、王渓長の娘を探し出すよう命じたそうなんです」 「え?」 皇太后の声とともに、梨夜も改めて海靖を見つめた。 海靖は、続きを梨夜に向かって言った。 「誰かが父上のお耳に入れたらしい。王渓長には娘が一人いたこと、その娘を人質に取れば、劉義法も強くは出られないだろうと」 「そんな…」 梨夜は一瞬たじろいだが、すぐに海靖に向かって言った。 「では、ちょうどようございました。わたしは、劉義法さまの軍にはせ参じたいと思っておりました。いますぐにこちらをおいとまいたします」 その言葉は海靖にとって予想していた通りのものだったらしい。 皇太后は驚いたようだったが、海靖はまったく表情を変えなかった。 「気持ちはわかるが、それは危険だ。劉義法の軍はまだ都からは遠い。着くまでに何に巻き込まれるかわからない。それに父上はすぐに、おまえがここにいることを探し出すだろう」 「皇帝に捕らえられるくらいでしたら、道中で野垂れ死にしたほうがましです」 梨夜がそう言い放つと、皇太后が悲鳴を上げた。 「やめて梨夜、そんなことを言うものではないわ」 「皇太后さま…」 「命は大切になさい。そうでないと王渓長だって悲しむわ」 そう言われると、梨夜には何も言えなくなる。 「ああ海靖、ではどうしたら。確かに、陛下だってすぐにこの子がここにいることをお知りになるわ」 「おばあさまは、何もご存じないとおっしゃってください。おばあさまがそうおっしゃれば、父上とて何もできないでしょう。この子は私が引き取ります。私の屋敷にいれば大丈夫でしょう。兄上もご承知です」 「海靖の屋敷に?それなら…」 皇太后は安心したようにうなずいた。 「じゃあ早いほうがいいわ、梨夜、早くここを出なさい。ひとまず海靖の屋敷に。あなたに何かあったら」 と、皇太后がそこまで言ったとき。 扉の外が急に慌ただしくなった。 「失礼いたします」 侍女の声がした。 「皇太后さま、陛下からのお使いの方がお見えでございます。皇太后さまに急ぎご確認したいことがおありだそうにございます」 「きっとこの娘の件でしょう」 海靖が言う。 「おばあさま、では私は、今はこれで失礼いたします。この子のことは責任を持ってお預かりいたしますから」 そう言うやいなや海靖は梨夜の背を押すと、何事もないかのように扉を開けた。 そこには二人の男性がいたが、海靖を見るとはっと頭を下げた。 「これはこれは、海靖さまがお越しだったとは」 「おばあさまに用があるのだろう?私の話はちょうど終わったところだから」 海靖は梨夜に、ついてくるよう目でうながすと、平然と部屋を出た。 そんな海靖を、二人の男性は丁寧に見送る。 庭を歩き始めた海靖のもとに、側近らしき人間がすぐに近づいてくる。 「海靖さま、仰せの通り馬車はあちらに」 庭の片隅に、馬車が用意されていた。 海靖は、梨夜に乗るよう促すと、自分もその隣に乗った。 側近が手綱を握り、馬車は動き出す。 馬車が動き出しても、海靖は無言だった。 梨夜もまた、自分の膝だけを見つめていた。 膝の上に置かれた自分の手だけを。 門を出たところで、海靖は口を開いた。 「おまえにとっては不満だろうが、しばらくは私と行動をともにしてもらう」 行動をともに、という言い方に、梨夜はちらっと海靖を見やった。 何をするというのか。 「挙兵の知らせを受けた父上は、即座に平定の軍勢を送ることをお決めになった。私は、その軍勢を自ら率いるつもりだ」 なんということだろうか。 劉義法を倒すために、この皇子は、自ら軍を率いるというのだ。 そんな皇子と、行動をともにしろと? 「下ろしてください!」 梨夜は叫んでいた。 「わたしは、そんな方とは一緒にはいられません!」 そして、馬車の扉を開けようとした。 「やめなさい!」 海靖は慌てて、梨夜の体を引き寄せた。 二本の腕が、しっかりと自分に回される。 逃れようとしたが、海靖の力にかなうわけはなかった。 自分には、何もできないのだ。 父親が殺されても、何もできない。 父親のかたきも討てない。 それだけではない。 あろうことか、父親のかたきを討ってくれようとする軍勢、それを抑えようとする人と一緒にいるなんて。 こんなに情けないことなんかない。 自分は何もできない。 あまりの情けなさに、梨夜の目から涙がこぼれた。 梨夜が泣いていることに、海靖はすぐに気付いたようだった。 腕をはなそうとしていた彼だったが、涙に気付くと、梨夜を抱き寄せた。 梨夜はもう、なされるがままだった。 あらがう気にもなれなかった。 そういう気も起こらない。 ただただ、泣くことしかできなかった。 あふれた涙は次々に海靖の服に吸い込まれて消えてゆく。 耳元で声がした。 「決しておまえに悪いようにはしないから」 悪いようにはしない? とはいえこれ以上、何がどう悪くなるというのだろう。 いま以上に悪いことなどないではないか。 やがて馬車が静かに停まった。 海靖は、梨夜からそっと腕をはなした。 一度あふれた涙は、そう簡単には止まらない 梨夜はそれでも必死で涙をこらえ、袖口で目元をおさえた。 彼の屋敷は、広々としてはいたがやや殺風景だった。 彼は梨夜を侍女に託すと、客用の部屋に案内させた。 「ゆっくり休みなさい。…すぐに出立だろうが」 出立とは、出軍のことだった。 案内された部屋は、綺麗な調度品も飾られてはいたが、華やかさというものはなかった。 華美な装飾を好まないというのが、おそらくは海靖の趣味なのだろうと思われた。 一人になると、梨夜の目からは再度涙がこぼれた。 そして今度こそ、思う存分泣きつくした。 [*前へ][次へ#] [戻る] |