欅(けやき)の木陰にて憩う 壱 梨夜(りや)は皇太后に仕える侍女である。 宮中に入って一月近く、仕事にも慣れた。 皇太后は彼女にとてもよくしてくれる。 暇があれば、好きなように過ごしてよいとまで言ってくれる。 皇太后は、皇帝の生母だ。 夫だった先の皇帝が崩御して以来、宮中の一角で静かに過ごしている。 たまに高官らがご機嫌をうかがいにやってきて、世間話をして帰ってゆく。 息子である皇帝は顔を出すことはないが、そのさらに息子で、孫にあたる皇子たちは時折やってくるそうだった。 だが、梨夜はまだそれを目にしたことはない。 「きっと忙しいのだと思うわよ。陛下が何しろああでいらっしゃるから…」 皇太后はそう言い、悲しげに目を伏せた。 現在の皇帝は、評判がよいとはお世辞にも言えなかった。 お気に入りの臣下ばかりを周囲に集め、贅の限りを尽くしている。 耳に痛い諫言をする者は、どんなに功績のある人物でも即座に遠ざけてしまう。 遠ざけるだけならまだしも、命さえ奪うありさまだった。 最後の忠臣といわれた高官が、逆鱗に触れたと死罪をたまわったのを機に、皇帝の周囲には諫言をする臣下は誰もいなくなった。 梨夜の父親が、その最後の忠臣だった。 「本当にあなたにはすまないことを。私があなたの父親にあんなことを頼まなければ。私が陛下への諫言を頼んだばかりに…」 「皇太后さま」 梨夜は首を振った。 「どうかもうそのことはお気になさらないでくださいませ。皇太后さまからのお話がなくとも、父はもともと自らの命を賭しておいさめ申し上げていたのですから」 梨夜の父親、王渓長(おう・けいちょう)は優秀な人物と評判で、皇帝からの信頼も厚かった。 そんな彼は常日頃から、皇帝の振る舞いをよく思ってはおらずたびたびいさめていた。 何度いさめても、彼だけは皇帝の叱責を受けることはなく、それは皇帝が彼のことを深く信頼しているためだと周囲は思っていた。 もっとも、皇帝は諫言を聞き流しているだけであって、中身を聞き入れることはなかったのだが。 しかしそれでも、他の人間のように「うるさい」と遠ざけないこと、そこに人々は、皇帝にもまだ良心が残っていると思っていたのだ。 ある日王渓長は、皇太后からも、皇帝に諫言するよう頼まれた。 それに応じ、彼はいつもにもまして厳しく諫言した。 ところがいつになく、それは皇帝の逆鱗に触れたのだった。 「私が余計なことをしたから。だってそれまで陛下は、王渓長の言葉だけは聞くそぶりを見せていらしたのに、私が余計なことをしたせいで陛下はお怒りに」 「皇太后さまのせいではございません」 確かに、王渓長がその日皇帝に対して、皇太后も憂えていると言ったのは事実だった。 だが、いくらなんでもその一言が皇帝を怒らせたわけではないだろう。 しかし皇太后は、自分を責めてやまない。 梨夜の母親は既に亡く、きょうだいもなかった。 皇太后は、自分のせいでたった一人の肉親である父親を奪うことになったと悔やみ、遺された梨夜を手元に引き取ったのだ。 だから皇太后は、梨夜に対し必要以上に気をつかってくれているのだ。 そういう事情を、梨夜は一応はよくわかっているつもりだった。 頭では。 だが、心はそうは思えなかった。 ――皇太后が余計なことを言ったから、父は命を落とす羽目になったのだ。 ひょっとしたらやはり、「皇太后さまも憂えている」との言葉が、皇帝を怒らせたのかもしれないではないか。 こうやって自分を引き取ったのだって、自分に対する懐柔策なのだ。 こんなことで罪滅ぼしをしようなんて、甘いことは考えないでほしい。 そんなふうに考えてしまう自分が嫌だったが、そう考えずにはいられなかった。 誰かを恨まずにはいられない。 誰かを恨んで、責めずには。 父親の命を奪った当人である皇帝も憎い。 憎くてたまらない。 誰かが誅してほしいとさえ思うが、王渓長に死を賜ったことで、心ある人間はみな怖気づいてしまったようだった。 そばにも寄らないそうだった。 当然だろう。 いま何か諫言したら、きっと、即死罪だろう。 いっそ自分の手で父の敵を、とも思うが、いくらなんでもそれは不可能だった。 あまりの悔しさに、涙もこぼれない。 ただただ寝てもさめても皇太后を恨み、皇帝を憎み、そして。 何もできない自分を責めていた。 そんなある日のこと。 梨夜が皇太后の話し相手をしていると、別の侍女がやってきた。 「皇太后さま、海靖(かいせい)さまがお見えになりました」 「海靖が?」 海靖とは、末の皇子の名だった。 それは梨夜も知っている。 長兄である皇太子に大変かわいがられており、海靖も普段から何かと長兄を助けているそうだ。 「あら、久しぶりだこと」 侍女が開けている扉の向こうには、背の高い青年が立っていた。 侍女の声に合わせて、静かに中に入ってくる。 そして、皇太后に対して一礼した。 「おばあさま、お久しぶりでございます。なかなかうかがうことが出来ず申し訳ございません」 静かな、落ち着いた声だ。 久しぶり、というのはきっとその通りなのだろう。 梨夜はこの人を初めて目にしたのだから。 来たという話を聞いたこともない。 ここ一月ほど、祖母のもとに来ていなかったのだろう。 「では皇太后さま、わたしは…」 そう言い、梨夜は下がろうとした。 すると、皇太后が呼び止めたのだ。 「ああ、ちょっと待って。海靖、王渓長のことは当然知っているでしょう」 その言葉に、海靖はきれいな目を静かに伏せた。 「ええ、あれはひどいことでございました…」 「この子が王渓長の娘なのよ」 「え?」 そう言われた海靖は、ぱっと梨夜へ目をやった。 「王渓長の?ええ、娘が一人いると耳にしていましたが…なぜこちらに?」 「私が引き取ったの。あまりに王渓長に申し訳なくて。私が、王渓長に陛下への諫言をお願いしなければ、あんなことにはならなかったのに」 「皇太后さま、それはもう」 すまなそうに顔をしかめた皇太后に、梨夜は慌てて声をかけた。 「もうご自分をお責めにならないでくださいませ」 「……王渓長の娘?」 海靖は、皇太后を気にするそぶりを見せつつも、まずは梨夜に直接声をかけた。 「はい、梨夜と申します。身内を失ったわたしを皇太后さまは哀れんでくださって、それでこうしてこちらに置いてくださっているんです」 「そうか…」 きっとこの皇子も、いきさつは知っているだろう。 父がなぜ死罪になったのか。 彼は皇太后に声をかけた。 「おばあさま、本人もこう申しております。あまりお気になさいませんよう」 それは、つらそうに顔を伏せてしまった祖母を、いたわるために言った言葉だったのだろう。 それは梨夜もわかる。 気にするなと、たったいま自分が言ったのだし。 だが、それを他人には言われたくない。 [次へ#] [戻る] |