欅(けやき)の木陰にて憩う
弐
第一、皇子であれば父帝の振る舞いを諫めるべきではないのか。
それなのに、なぜ何もしてくれなかったのか。
父だけが犠牲になってしまうなんて、ひどすぎる。
父一人をいけにえにし、見殺しにしたのだ。
梨夜はくちびるをかみ締めた。
怒りで体が震え出しそうだ。
するとそんな梨夜に、海靖が声をかけたのだ。
「ここはもういいから」
「……」
あなたに言われたくない。
そう思いつつ梨夜は一礼だけすると、そのまま廊下へ出てしまった。
そしてさらに庭へと向かった。
庭の隅に、大きなけやきの木が植わっている。
その根元に向かった梨夜は、ゆっくりと木を見上げた。
実家の庭にもけやきの木が植わっていた。
いまあの家はどうなっただろう。
父親は罪人として殺されたのだから、屋敷その他の財産は官に没収されてしまったはずだった。
父は、何も悪いことはしていないのに。
罪人として死なねばならなかったなんて。
殺されなければならなかったなんて。
ひどすぎる。
梨夜は顔を伏せた。
怒りに体は震えてくるが、涙はこぼれない。
ただじっと根元を見つめていると、ふと背後に人の気配を感じた。
振り返ると、そこには先程の海靖が立っていた。
一人だった。
梨夜は彼を思わずにらみ据えたあと、目をそらした。
「何かご用ですか」
この人は、父が殺されたのに何もしてくれなかった、そう思うと口調がきつくなる。
だがそんな梨夜に対し、海靖は言ったのだ。
「……父親の件は、実にすまないことをした」
思わぬ謝罪の言葉に、梨夜の体から力が抜けた。
再度彼を見やると、海靖は、目を伏せていた。
そして何かをもっと言おうとして、言いよどみ、口を閉じた。
心のこめられた謝罪であることは、梨夜にもすぐにわかった。
海靖は少しの間を置いたあと言葉を続けた。
「救えればよかったのだが……」
が?
しかし海靖はその先を言わず、口を閉じてしまった。
が、なんなのか。
「……結局は何もしてくださらなかったわけですよね」
梨夜のその言葉に、海靖は何も言わなかった。
その通りなのだから仕方があるまい。
いくら、謝罪されたって同じだ。
梨夜は軽く頭を下げると、もう彼の前を離れてしまった。
そんな梨夜を、海靖はじっと見つめていた。
その姿が建物の中に消えるまで。
海靖はその後、皇太子のもとに向かった。
皇太子は現在、都の一角に広大な屋敷を構えている。
長兄である皇太子と末弟である海靖とは、だいぶ年が離れている。
皇太子は、自室で机に向かって書状をしたためていたところだった。
だが、やってきた末弟を見るとすぐに筆を一旦休めた。
「おばあさまのところへうかがって参りました」
「どうだった?最近顔を出せていないが」
「それが兄上」
海靖は声をひそめた。
「そこに王渓長の娘がいたんです」
「王渓長の娘?」
皇太子は、筆を筆架に置いた。
「ええ、おばあさまが引き取ったそうです。王渓長に諫言を頼んだこと、それで彼があたら死を賜る羽目になったと悔いていらっしゃって、せめてもの罪滅ぼしに、ということだそうです」
「娘はどんな様子だった」
「ええ、相当周囲を恨んでいるようでした。きっと、おばあさまも含めて。表面は、そんな様子はみじんも出していないようですが」
「だろうな。おまえ、その娘と話をしたのか?」
「ほんの少しだけ。取り付く島もありませんでした。私のことも恨んでいるようです」
「皇子なのに何もしてくれなかった、ということだろう」
皇太子の言葉に、海靖もうなずいた。
「それで、その娘の素性を周囲は知っているのか?」
「おばあさまに確認しましたら、周囲には話していないそうです。本人が話すことを望まなかったそうで」
「そうか。きっとそのほうがいいだろう」
そこで皇太子は、改めて海靖を見やった。
「じゃあおまえ、あのことは何も話してはいないんだな」
「ええ、いま会ったばかりですし」
「そうだな」
皇太子は立ち上がると、窓辺に向かった。
「細心の注意を払って事を運ばねば。
今回の計画を娘に話せば、その子も少しは気も休まるだろう。だが、そこから万が一にでも計画が漏洩したら元も子もない」
海靖は目を伏せてうなずいた。
翌日のこと。
梨夜が皇太后や他の侍女と一緒に庭を散歩していると、庭の向こうから昨日の海靖がやってきたのが見えた。
海靖は、今日はもう一人別の男性と一緒だった。
海靖よりだいぶ年長のその男性を見て、別の侍女が言った。
「あちらが皇太子さまよ」
兄と連れ立ってきたのだ。
二人は年こそ離れてはいるが、顔立ちはどことなく似ていた。
明らかに違っていたのは、ほがらかな明るい笑顔を浮かべている皇太子に対し、海靖は無表情でいることだった。
「おばあさま、お久しぶりでございます。お元気でいらっしゃいましたか?」
「まあ、二人で来てくれるなんて」
一番上の兄と一番下の弟がそろって来訪したこと、それは皇太后にとりとても嬉しいことのようだった。
「海靖は昨日も来てくれたのに、今日も続けて」
「兄上がお誘いくださったので」
海靖が答える。
皇太后は、二人を連れて建物の中に戻った。
梨夜も他の侍女たちと一緒についてゆく。
海靖がこちらを気にしているような気がするが、彼はいまは何も言わなかった。
皇太子が、祖母に声をかける。
「おばあさま、見ない顔の侍女がいますね。新しく入れたのですか」
「ああ、ええ」
皇太后がそう答えるまでに、一瞬の間が開く。
部屋に入った皇太后は、梨夜だけを残して他の侍女を部屋から出した。
「海靖から話は聞いたかしら?この子は…」
「ええ、聞きました」
皇太子は、皇太后に皆まで言わせなかった。
「やはりこの娘が王渓長の」
「ええ…」
今日もまた自らを責めそうになった皇太后に、皇太子はすぐに声をかけた。
「おばあさまのせいではございません。誰のせいでもないのですから。これはただひとえに父上の過ちなんです」
梨夜は、伏せていた顔を上げた。
この皇太子は、皇帝の非を認めているのだ。
彼の背後にいる海靖もまた、その通りだといわんばかりに口をかたく引き結んでいる。
[*前へ][次へ#]
[戻る]
無料HPエムペ!