墨の香りの宝物 参 兄がいなくなり、二人きりになると、芳紗はうなだれた。 そして、弱々しい口調で静夏に言った。 「ごめんなさい、わたし、先生はいらないの。せっかくお兄さまが連れてきてくださったけど…」 静夏はやはりと思った。 「芳紗さま、ではわたしはもう戻ります。お気になさらないでくださいませ。ただ最後に、芳紗さま」 「なに…?」 「泣きたいときは、泣いてもよろしいのですよ」 「え?」 「我慢なさる必要はございません。我慢はきっと、芳紗さまのお体にさわります」 「……」 芳紗は、そう言う静夏をじっと見つめた。 「お兄さまのことがお好きなのですね。でも、お兄さまは毎日お忙しいのでございましょう。なかなかご一緒にいられなくて悲しいことでしょう。そういうときは、泣いてもよろしいのですよ」 「……そうなの」 芳紗の目に、見る見るうちに涙が浮かんだ。 「お兄さま、即位なさってから毎日とてもお忙しいの。ううん、その前からお忙しそうだったけど、特にそうなの。前はしょっちゅうここに来てくれたのに、今はなかなか来てくれないし、来てもすぐに今みたいに行っちゃうし…。でも、お忙しいのだからしかたがないの」 芳紗は、せきを切ったように涙をこぼし始めた。 静夏はそばにそっと近づくと、床にひざを着き、芳紗の髪をなでてやった。 「毎日よく我慢なさってますね。でも、涙は我慢なさらなくてもよろしいのですよ」 「わたしが泣くと、みんな心配するから…」 おそらくは、一人で泣いているのだと思われた。 これでは気分も晴れないだろうし、気分が晴れなければ体調だってよくはなりにくいだろう。 いじらしい皇女のために、静夏は何とかしてやりたいと思った。 そう思いながら髪をなでていると、芳紗は泣きじゃくりながら静夏に訴えたのだ。 「ごめんなさい、やっぱりもう少しここにいて」 「芳紗さまのおっしゃるとおりにいたしますよ」 きっとこの皇女は、寂しいのだ。 大好きな兄と一緒にいたいのに、いられないことが。 芳紗はそれからかなりの時間泣き続けた。 最後は涙も枯れ果てて、彼女自身もぐったりしてしまうほどだった。 だが、気分は多少晴れたようだった。 芳紗は赤い目でじっと静夏を見つめると言ったのだ。 「あのね?」 「なんでしょう?」 「先生は、まだここにいても大丈夫?」 「ええ」 静夏はうなずいた。 「わたしはお兄さまのように忙しくはございません。芳紗さまのお望みのままにおそばにおりますよ」 「本当?」 「ええ」 「このままお話をしていて平気?」 と、芳紗が話し出したのは、兄のことだった。 鴻秀がどんなに素晴らしいか、立派か、そして自分に優しいか、芳紗は静夏に語って聞かせた。 誰かに兄を自慢したいようだった。 静夏がうなずきながら聞いていると、それだけで芳紗は満足そうに笑う。 芳紗が求めているのは学問の師ではなく、衛呈孝が言ったようにまずは話し相手のようだった。 そして、自分の気持ちを汲んでくれ、話を聞いてくれる静夏は、そのお眼鏡にかなったようだった。 静夏もまた、このいじらしい皇女がすぐにかわいくて仕方がなくなった。 その日は結局芳紗は静夏を離そうとはせず、夕食まで一緒に食べ、そして寝る直前まで一緒だった。 芳紗が寝入ったのを確認した静夏は、ほっとしながら部屋を出た。 すぐに侍女がやってくる。 「静夏さま、陛下がお呼びでございます」 あれから鴻秀は結局芳紗のもとへは来なかった。 鴻秀の私室に向かうと、彼は窓辺に立ち、暗い庭を目に映していた。 四角い卓上には青磁の湯飲みが二つ並んでいる。 一つは飲みさしだが、もう一つには手はつけられていない。 つい今まで、誰かがここに来ていたらしい。 「衛呈孝は安心しながら帰っていった」 鴻秀はそう言いながら歩き出すと、昼間と同じように卓に向かって腰を下ろし、脚を組んだ。 「あれからずっと一緒にいたそうだな。芳紗もおまえを気に入ったようでよかった」 静夏はうなずき、ついほほ笑んだ。 「本当におかわいらしい方で…。ずっと鴻秀さまのことをお話しでいらっしゃいました」 鴻秀の表情がかすかにゆるむ。 だがすぐに、真顔に戻って自分の足先を見つめた。 「これまでは私がいないと、ずっと一人で泣いていてあまりに不憫だったが…おまえがいれば大丈夫だろう。どうか芳紗を頼む」 静夏はうなずいた。 話はそれだけのようだった。 それで静夏はもう下がろうとし、下がりぎわに鴻秀に声をかけた。 「鴻秀さま、これはもう片付けてよろしいですか?」 「ああ」 湯飲みを二つ手にして、静夏は部屋から出た。 口をつけていないのは、いま座っていた鴻秀の前にあった湯のみだった。 皇帝が口をつけていないのに、客人が飲むとは。 ふと見ると、飲みさしの青磁の碗のふちには紅が残っていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |