真珠の声
弐
廊下を進み廻廊を渡り、やがて玲韻は広間の入り口に着いた。
中の熱気が伝わってくる。
すぐに扉が開く。
入り口の近くに座している人々が、ほう、と声を上げる。
「この娘が、噂の『真珠の声』の歌姫ですな」
「なんと、鬼神をも感じさせるほどだとか」
「さあ玲韻」
上座のほうから長官の声がする。
「峻定様、これがその歌姫でございます」
玲韻はうつむいたまま広間の中央へと進んだ。
奥の上座には長官と、そしておそらくは主賓である峻定がいるはずだった。
広間の端に陣取っている顔なじみの楽士たちが、青い顔の玲韻を心配そうに見つめる。
玲韻は、上座の前でひざまずいた。
「玲韻にございます。お目にかかれて大変光栄に存じます……」
そう言ったつもりではあった。
だが実際、玲韻の口から声は出ていなかった。
峻定の随員たちがざわめく。
目の前の峻定らしき人物が、自分をじっと見つめているのがわかる。
「さ、さあ玲韻、まずはおまえの声を聞いていただきなさい」
長官がわざとらしいほどに明るい声でそう言う。
楽士たちが楽器を構え、音色を奏で始める。
玲韻は立ち上がった。
そして顔を上げると、正面は素通りして天井を見上げた。
息を吸い込んだ。
だが出てきたのは声ではなく、涙だった。
「もういい」
そう言う声が広間に響いた。
伴奏がやむ。
「事情は耳にした。無理に歌わなくてもいい」
声は正面からだ。
涙でにじむ玲韻の視界に、正面にいる青年がほほ笑んでいる様子が映った。
まばたきをして涙を落とすと、立派ないでたちの青年が長官の隣に座っている。
その青年こそ、峻定だった。
峻定は、玲韻に向かってほほ笑んでいた。
「こんなところにいる暇があったら、早く帰って姉のなきがらのそばにいてやりなさい。私のせいで、悪かったね」
「……」
事情を知っていたのだ。
長官が慌てたように峻定に声をかける。
「峻定様、ご存じだったのですか」
「耳に入ってきた。おまえにも嫌な役回りをさせてしまったようだ。無理に連れてきたのだろう?」
その言葉に長官も涙ぐむ。
峻定はもう一度玲韻にほほ笑みかけた。
「玲韻、今は早く戻りなさい。いつの日か機会があったら、そのときにこそ私のために歌ってほしい」
玲韻の目に、改めて涙が浮かんだ。
そう、今は無理でも、いつの日か。
自分なんかを気づかってくれたこの方のために歌いたい。
玲韻はうなずいた。
うなずく拍子に、頭上の真珠がゆれる。
そして同時に、涙がこぼれた。
涙の珠は頬を伝い、あとからあとからこぼれ落ちた。
その夜更け、欣芸の街に透き通った歌声が響き渡った。
玲韻が、姉のために歌う声だった。
翌朝、街はその美しくも悲しげな声の話題一色に染まっていた。
だが当の玲韻の声は、その晩以降出なくなってしまっていた。
風邪を引いてのどでも痛めたかのような、かすれた声しか出なくなってしまったのだ。
話し声でさえそうなのだから、歌うことは無理であった。
街の人々は皆がっかりしたが、玲韻は構わなかった。
もう姉はいないのだから。
声を聞かせたい人はもういないのだから。
声が出なくなった原因はおそらく、姉がいなくなったことだった。
もう一生会えなくなったことだった。
峻定は、数日間欣芸の町に滞在して都へと戻っていった。
出立前夜には送別の宴も行われ、本来だったら玲韻も当然呼ばれるはずだったが、呼ばれることはなかった。
そして帰京の日、立派な白馬にまたがっている峻定を、玲韻は街の片隅から見送った。
だがちょうど玲韻の前を通ったとき、峻定がこちらに気付いたのだ。
「玲韻」
峻定は馬を止めた。
峻定が止まったので、一行も停止する。
彼はわざわざ馬から下り立った。
「大丈夫か?あれから声が出なくなってしまったという噂を耳にしたが」
玲韻は笑ってうなずいた。
「大丈夫です」
笑顔には安心したようだったが、大丈夫と言うその声には、峻定は顔をしかめた。
かすれた声は、あまりに痛々しかった。
「……無理はするな。体を大事にしろ」
玲韻はうなずいた。
「ご心配ありがとうございます。峻定様こそ、道中お気をつけくださいませ」
その言葉に峻定もうなずいた。
そして、再び馬にまたがると、最後に玲韻に笑顔を向けた。
「……おまえがいつか幸せになるよう、都から祈っている」
峻定はそう言い置くと、再び手綱を握りなおした。
いつの日か、と峻定は言った。
いつの日か、歌ってほしいと。
自分だって歌いたい。
自分などにまで優しく接してくれる峻定のためになら、ぜひ歌を聞かせたい。
だがきっと、そんな日は来ないだろう。
自分はきっとこの街でずっと過ごすのだろうし、峻定が二度もここに来ることはないだろうから。
もう会うことさえないだろう。
一行が遠ざかっていく様子を、玲韻はじっと見つめていた。
だが、その日は訪れたのだ。
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