14 いつもより少し遅い時間に雨宮の部屋を後にした。 ベランダで雨宮が呟いたことが気にかかってはいたが、また機会があったら訊いてみようと思う。 エレベーターが一階につき、ドアが開くと同時に何も考えずに降りようとすると、乗ろうとした人とぶつかりそうになった。 「あ、す、すみません」 反射的に軽く頭を下げて謝る。すると、聞き覚えのある声が振ってきた。 「あれ?吉野君?」 その声に顔をあげると、やはり酒井先生だった。あの時会った編集部の人たちは、時々叔母の店に来てくれていたが、酒井先生とはあの時以来だ。 「あ、お久しぶりです。それじゃ…」 挨拶をして立ち去ろうとすると、酒井先生はエレベーターには乗らずそのまま足を止めた。誰かが呼んだのかエレベーターの扉はしまり、上へあがっていく。 仕方がないので、俺も立ち止まって酒井先生を見上げた。 疲れているのか少し目が窪んでいる。それでも男前なのに代わりはなくて日本人離れした体躯とあいまって、なぜか、俺がこの人にかなうはずがないと落ち込んだ気持ちになる。そんなの、当たり前のことなのに。 「ちょっと時間いいかな。ジュニアのことで吉野くんに聞きたいことがあるんだけど」 「雨宮の?なんですか?」 「ここじゃなんだから場所変えよう。おいで」 そう言って、俺の返事を待たずに酒井先生は大股に歩き出し、強引な人だと思いながら俺も後に続いた。 先生の車で駅前のコーヒーショップに行った。 平日の遅い時間のせいか、客の入りはまばらで、酒井先生にレジでコーヒーを買ってもらってから奥の席に腰をおろす。 酒井先生は座るなり煙草をだしかけたが、禁煙だとすぐに気づいたのかちょっと残念そうな顔をしてまたしまった。 そして代わりのようにコーヒーを一口飲む。 「吉野君はさ、昴の中学からの知り合いなんだろ?」 「いえ、雨宮とはここ何ヶ月かの知り合いで…。俺、バイトで弁当届けてて…。それで仲良くなって」 仲良くなって、と付け加えたのは、酒井先生が「知り合い」という表現を使ったからだ。なんとなくそれを覆したかった。 しかし酒井先生はそんな俺のささいな思惑など気にしないかのように、あっけらかんと言った。 「あれ?そうなの?てっきり中学が同じなのかと思ってた。そういや制服違うもんな。まあいいか」 手にしたコーヒーをテーブルに置いてから酒井先生は片肘をついた。 「あのね、あいつ高校のこととか君に何も言ってない?行きたいとか行きたくないとか」 俺が首を横にふると、酒井先生は諦めたようにため息をついてからもう一度コーヒーを飲んだ。 少しの間、沈黙が訪れた。それに耐え切れないわけでもないが、俺はずっと疑問に思っていたことを思い切って訊いてみた。 「……雨宮、なんで高校行ってないんですか?」 「知らねえ。俺にはそういうこと全然話さないんだよな」 「中学でなにかあったとか…」 先生はそれには何も答えずに、スプーンで何もいれていないはずのコーヒーをかき回した。 そして、何か考えるように俺から視線を外して眉をよせ、しばらくしてから俺を見た。 「んー…これは俺の推測でしかないんだけど。あいつ幼稚園から高校までエスカレーターの学校にいっててさ…。ああ、んなこた、知ってるか」 その言葉に俺は反応しなかった。 住んでいるところも、どこの学校に行っていたのかも、なぜ高校に行っていないのかも、俺は雨宮のことを何も知らない。 知っていることは、いつもあの部屋にいて、星を見るのが好きなわけじゃないのに星をみていること、ファーストフードが嫌いなこと、名前の由来。そのくらいだ。 だけど何も知らないことを酒井先生に知られるのはなんだか嫌で、答えないことを選んだ 「で、中学の頃お袋さんが亡くなってさ、雨宮先生は住居海外に移すことにしてジュニアも連れてってあっちで高校行かせるからって、そこの付属の高校には行かないことになったらしいんだけど」 それを聞いて、雨宮は父親はほとんど家にいなかったと言っていたことを思い出した。きっと雨宮浩は海外の方が都合がいいようなことをしていたのだろう。 「先生が遭難事故にあって、その後、いろいろ調べてみれば、ジュニアの進学含めて海外移住の準備なんてまったく進んでなかったし、だけど金とかはそつなく昴に渡るようになってたんだよ。だから遭難に見せかけた自殺じゃないかって当時は週刊誌とかに書かれたりしたんだよね。奥さんの後追いか、みたいな感じで。……だからさ、父親がいなくなった上に、そういう噂が出回ったのがショックで外の世界に嫌気がさしているんじゃないかと俺は思ってる」 その話はもっともらしく聞こえたが、俺はちょっとした違和感を覚えた。 たしかに酷い話だと思う。父親が遭難して孤独が身に降りかかった上に、口さがない噂を立てられて。 だけど雨宮はそんな噂に振り回されるような人間に俺にはどうしても思えなかった。 「もうすぐ大きな仕事に入るから、その前に俺に出来ることがあれば何かしてやろうって思ってるんだけど。あいつ基本的にあそこから動きたがらないんだよなあ。どっか遊びに連れてってやるっていっても10回誘って1回くらいしか応じないしさ。……君、説得してみてくれない?」 「説得…ですか?」 「いまからでも高校行かないかって。高校じゃなくても大検だっけ?それ受けて大学行くつもりがないか、とか。ああ、留学って選択肢もあるね。とにかくあの部屋から出て何かしてみないかって」 その言葉に、どこにも行けないという雨宮の呟きが耳の奥で蘇った。 「で、でも本人がいたいんなら、それでもいいんじゃないでしょうか」 衝動的に口にしていた。 俺の夢を肯定してくれたように、俺も雨宮のあり方を肯定してやりたいと思った。酒井先生が雨宮のことを本当に心配していることはわかっている。だけど、どうしても止まらなかった。 俺が反論すると思わなかったのか、酒井先生はコーヒーを飲もうとする手を止めて俺を見た。それから諭すような口調で言った。 「君は、学校楽しくない?」 「え?いえ」 「だろうね。俺はさ、これからでもいいから、君みたいに同年代の子と勉強したり遊んだり、窮屈だけど馬鹿やるのが許される最後の時代をあいつに味わわせてやりたいんだよね。君はその真っ只中にいるからぴんとこないかもしれないけど、後から振り返ると宝物みたいに貴重な時間だったりするんだよ、10代の終盤ていうのはさ。少なくともあんな何もない部屋で何もせずに過ごすものじゃない。どっかの馬鹿の憶測のせいで世界に絶望して、貴重な時間を無為にすごすなんて馬鹿馬鹿しすぎる」 俺は何も言い返せなかった。俯くと、一口も飲んでいないコーヒーが目に入る。 「あいつが、あのままあそこで大人になって、それでいいはずがない。そう思わないか」 それは、すごく正しくて優しい言葉だと思った。 これを酒井先生が言っていたと知ったら、雨宮は喜ぶだろうか。自分が想っている人がこんな風に考えてくれていると知ったら。 胸の奥に暗い影が差す。 「……まあでも、吉野君があいつの側にいてくれて少し安心したよ。これからも昴のいい友達でいてやってくれな」 「え」 突然言われて顔をあげると、酒井先生は目を細めて笑っていた。 それは、あの本の父親のイメージと重なる笑顔だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |