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13
「ごめん。こんな遅くに。誰か来るんだろ」
「大丈夫。来るのは酒井先生。それに先生が用事があるのは下の事務所だから」
 俺が叔母さんの店に食事に来たけど休みだったことを話すと、雨宮は俺にパンと缶コーヒーをくれた。
 ありがたく頂くことにして、それをソファに座ってのろのろと食べる。雨宮はしばらく隣に座っていたが、俺が何も話さないからか、ベランダへ行ってしまった。俺の頭の中はあれからずっと自己嫌悪に似た気持ちに満ちていて、世間話をできる気分でもなかったから、少しほっとする。それにもかかわらず、変な話だが、雨宮の顔を見て少し気分は落ち着いたようだった。
 食べ終わってソファに座ったままベランダの雨宮の背中をなんとなく目で追う。雨宮は今日は珍しくちゃんと上着を羽織って外に出ていた。
 ベランダで雑談するときは、たいてい俺が上着を持っていってやるのがきっかけだったが、不意に思い立って俺もベランダに出てみた。
 雨宮はちらりと俺を見ただけですぐに目を戻し、俺も構わずサッシの縁に腰をおろす。
 空を見上げると、星は思っていたよりもよく見えなかった。
「吉野」
 呼ばれたので立ち上がって雨宮の側にいくと、望遠鏡の接眼レンズを指し示された。覗けということだろう。
 促されるがままに覗いてみると闇の中にぽっかりと見覚えのある特徴のある球体が浮かんで見えた。
 これは、と思うと同時に、雨宮が言った。
「土星」
「すげえ。望遠鏡ってこんなによく見えるんだ」
「今日は月が出てなくて晴れているから、特によく見える」
 レンズを通してみるものという点では写真でみるのと変わらないだろうに、なぜか望遠鏡でのぞく星は俺を少し興奮させた。教科書や図鑑で見るだけだった星が、現実に存在すると実感できたせいかもしれない。
「もっと見たい。有名どころとか」
 俺がせがむと、有名どころ、と呟いてから雨宮は俺と交代に望遠鏡の前に立ち、色々調整を始めた。それをどこかうきうきした気持ちで待つ。
 それから、雨宮は俺の言った通り、なじみのある星を次々に見せてくれた。オリオン座、シリウス、カペラ、どれも聞き覚えのある星だ。
 想像もつかないほどの長い年月をかけて届く光だと思うと、宇宙の広大さに飲み込まれてしまいそうだ。月並みだが、自分の悩みなど小さいもののように思えたりもして、俺は夢中でレンズの中の星を見つめた。
 そうして、何回目かに覗いた望遠鏡には青白い星の群れが映っていた。
「これは?」
「プレアデス星団」
 雨宮の名前の星があるやつだとすぐに気づく。
「昴?」
 覗いたまま尋ねても雨宮が何も言わないので、覚え違いをしていたかと一瞬思ったが、遅れて返事がきた。
「そう」
「昴ってどれ?どの星?」
「昴はプレアデス星団のこと。一つの星を指すわけじゃない」
 俺はなぜか青い一等星をイメージしていたから、これは完全に覚え間違いをしていたようだ。
 ブルーマウンテンをアフリカだと思い込んでいたことといい、馬鹿なところばかり見せていると恥ずかしくなってしまい、反応が気になって望遠鏡から目を離して雨宮の方を伺う。しかし雨宮は俺から顔を隠すように俯いていてこちらを見てはおらず、俺は安心してまた望遠鏡を覗き込む。
 望遠鏡の中の遙か遠い小さな光の数々は、ほんの少しだけ俺の気を晴らしてくれた。
 
 
 ひとしきり夜空を堪能して、雨宮に礼をいうと、彼は唐突に言った。
「これは君にあまり言いたくないことだけど」
「うん?」
「酒井先生があの本の主人公のモデル」
「……ああ!」
 言われてみれば、そんな感じだ。おおざっぱそうで、陽気で、強そうで、男前で、ほんのちょっと無神経。
「それから、三巻に出てきた女の子は、酒井先生の当時の恋人」
「そうなんだ」
「でも振られたらしい」
 容赦ない暴露にちょっと笑ってから、ふと気になって尋ねた。
「なんでそれ言いたくなかったの」
 雨宮は口を閉ざして、考えを巡らせるように視線を下に向けた。
「…どうしてだろう。君が酒井先生を好きになったら嫌だから?」
 珍しく自信なさげに雨宮は自問自答するかのように呟いた。だけど俺はその言葉に心臓がとまりそうになった。
 まるで嫉妬しているように聞こえて、それは酒井先生に対する独占欲そのもののように感じた。
 だけどすぐに雨宮も酒井先生も男だと思い直す。何を馬鹿なことをと繰り返し心の中で呪文のように唱えても、下の店で二人が親しげだったことを思い出してしまい、内心の動揺はなかなか治まりそうになかった。どうして自分がこんなことを考えてうろたえているのかわからない。
 だけど、そういば初めて酒井先生に会った日、先生に肩を抱かれた俺をみて、雨宮は不機嫌そうだった。あれも嫉妬と考えればこれほどしっくりくることもない。
 考えれば考えるほど馬鹿な考えを裏付けるようで、混乱する俺に雨宮が言った。
「…後で考える。それよりも、多少は気晴らしになった?」
「え?」
「元気がないように見えた」
 星を見せてくれたのも、唐突に酒井先生のことを話し始めたのも、もしかして俺を元気付けようとしてくれたのだろうか。
 途端に心が明るくなって、気分が高揚していく。雨宮の気遣いがすごく嬉しかった。
「うん。ありがとう。ちょっとさ、色々悩んじゃって」
「悩み?」
 俺は雨宮に話した。自分がずっと抱いていた願望のこと。妹のこと。妹と父のいさかいのこと。それを聞いて自分が現実的には何も考えていなかったことに気づいて、今までやってきたことが無駄だったとすら思っていること。
 雨宮は黙ってそれを聞いていて、俺が話を終えると考えるように少し俯いて黙った。
「僕には、君の妹も君も、きちんと前へ進んでいるように思える」
「そうかな……。妹はともかくさ、前も言ったけど、俺は自分がどこに行きたいかわからないんだ。でもどこかへ行きたいんだ。馬鹿みたいだけど。だけどいざそうするときのことを考えると、将来のこととか、妹みたいに…」
 親にいらない心配をかけることになることとか、と続けようとしたがやめておいた。父親が行方不明で母親を亡くしている雨宮にそれをいうのは、どうしてもためらわれた。
 しかし雨宮は察したのか静かに言った。
「それはこれから考えればいいこと。何をするにしろ、将来を心配する人との軋轢は避けられない。だけど対話で解決すればいい話。聞いた限り君の妹はなんの材料もないから困難なんだと思う。だけど君はずっと見える形で行動していたから説得力はあるはず。もしも材料が足りないのなら、これから補えばいいだけ」
 雨宮が淡々と紡ぐその言葉は、不思議なことにすとんと俺の中に落ちてきた。
「それに、自分がやってきたことが無意味に思えるのは成長した証にすぎないと酒井先生が言っていた。僕もその通りだと思う。だから、諦めるのは最後の選択肢にした方がいい」
 そうだ。過去の自分を効率悪いと思えるってことは、自分が進歩してるからとも言えるじゃないか。自分のやってきたことを無駄だとか非効率だとか、それほど憂う必要はないのかもしれない。
 ただ夢だけを見てる時期は終わって、行動するために解決するべき具体的な問題がやっと見えてきただけで。そこから逃げようとしていたなんて、俺はなんて馬鹿なんだろう。
「僕は、君にはじめて会った時、すごく前向きで行動力があって自由な人だと思った」
 唐突に褒められて、照れくさくなった。雨宮の言葉には嘘がなくて、彼が本当に思ったことを言っているのだと知っているからなおさらだ。
「だから、君はきっとどこへでも行ける」
 力強い言葉にさらに照れてしまって夜空を見上げる。すると遠くに、星よりも強い、上昇を続ける光が見えた。飛行機の灯りだ。
 単純なことにそれがまるでいつか自分をどこかへ連れて行ってくれる希望の光のように思えて、俺は視界から消えるまでそれを見つめた。
 その時、ぽつりと呟かれた雨宮の声はあまりに小さいかすかなもので、だから、その意味を俺は問い返すことができなかった。
 
「父の本に影響を受けているのは同じなのに、僕とは違う。――僕はどこにも行けない」

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