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まどろみのその
時計の針が0時0分をさす音で目が覚めた。

マットレスにカーテンを敷いただけの簡素なベッドの上に片腕だけを預けて、座り込んでいたまま寝ていたらしい。
起きたばかりの身体がぎしりと軋む。

暫くの間彷徨った目線が日付を変えた秒針を捉えて、アキラは俄に現実を思い出した。
夜の静けさが満ちた薄暗い部屋の中で、聞こえるのは自分ともう1つの息づかいだけ。
寒い土地でなくて良かった。そうぼんやりと思いながら、右手に感じる淡い痺れを伴うぬくもりに振り返る。

月光を吸い込んで艶めく黒髪と白い肌がそこにある。
すぐ側に横たわる身体をみとめて、休息していた男の様子を見ているうちに自分が眠ってしまっていたのだと気付いた。

繋がる肌から体温を探れば、ほとんど熱を持たない男の手が返してくるのは、握られているせいで馴染んでしまった自分自身の熱だ。
ふと不安に駆られて、アキラは様子を伺おうと男の傍らに顔を寄せた。

はだけたシャツの襟から覗く、浅く浮き沈む白い胸板。
生きているのかわからなくなるくらい密やかだが、たしかに呼吸しているとわかる。

現実感がないのはこの男の姿があまりに儚いからだろうか。
長い睫毛に閉じ込められた紫紺の瞳を思い出せば、まるで存在そのものが幻想のようで、人に在らざるものとも思えて。
意識せずこぼれ落ちたため息は、静寂に残って散った。



此処は、慣れ親しんだ故郷ではない。
ニホンから抜け出した後、流れるままに流れついた異国の地。

逃げてはいても、追手を避けながらたどり着いた土地をそのつど拠り所とするだけで、目的はない。
見つかればまた流れる、その繰り返し。だから今いる此処がどういう場所で、なんという名前なのかすらアキラにはわからない。
きっとこの男にも。
吸い込んだ空気が、知らない土の匂いを教えてくれる。それだけで十分だったし、誰の記憶にも残らないことも悪いとも思わない。
二人でいられればそれでいい。いつからか、そう思うようになっていた。

窓から差し込む月明かりを一瞥して、アキラは隣で眠る男の柔らかな黒髪を撫でた。

起きるだろうか。
肌を触れさせれば互いの血が沸き立つ。
反作用の反応も慣れた今では心地よいが、眠る男に良くない刺激にならないとはいえない。

息を飲んで、蒼白く闇に浮かぶ顔を伺う。
長い睫毛がぴくりと動いたが、また人形のように静まり、安らかな寝息をたてる。

珍しい。常ならば、この男は僅かな物音にも過敏に反応して覚醒するのに。
疲労していても、危険のない場所でも、いつだってそうだった。
そのおかげで、今までに奇襲は幾度となくあったが、アキラたちが先手をとられた試しはない。

どんな物音にも気配にも気付いて覚醒することができる彼の能力は、死と共に歩んだ闇の残滓だ。
消そうとしても、黒々と遺された足跡は振り返るたび其処にある。
アキラには遠く及ばない世界。
未だにこの男はその時間軸に取り残されたままなのではないかと、不安に心臓が押しつぶされそうになるのだが。
今日はそんな懸念も形を潜めるほどに、男が深い眠りを享受しているのがわかって、胸が熱く疼いた。

―nicol premier― 奇跡ともいえる確率で生まれた最強の人造兵器。

あらゆる感情が取り除かれた後に残された絶望を宿した瞳は、今はもう見えない。
緩慢に、だが確実に、男は欠けた心を取り戻そうとしている。
笑いかけたなら、うっすらとだが微笑みを返してくれるし、アキラが怪我をしたりすると、眉を潜めて辛そうな顔を作る。
鏡のように、最初はこちらの真似をしているだけなのだと思っていたが、最近はとても自然に感情を表すようになった。
初めての湧き出る感情に戸惑い揺れる瞳も、その困惑さえ彼を兵器から人間に連れ戻してくれる。
アキラの隣に感じる体温はまだ頼りないけれど、そう、少しづつ取り戻していけばいい。
そんな風に思考を巡らせて、アキラはふと視線を意識のない顔に滑らせた。

綺麗な寝顔。

形のよい唇が薄く開いて、蠱惑的な色味を帯びている。
触れたら柔らかそうだなどと、そんなことを考えながら指を伸ばしかけて苦笑を漏らした。

せっかくの休息を邪魔はしたくない。

所在をなくした指が彷徨ってシーツの上にするりと落ちた。
存外大きなその音にも、目覚める気配はない。
起こさなかったことに安堵のため息を漏らし、アキラは額をマットに押し付けて息を吐いた。
伏せた目の奥に暗闇が訪れる。
視界が失せれば、ここ数日間の命のやり取りが易々とよみがえり、アキラを苦しくさせた。

逃げ惑う日々には、労力を使う。
いくらこの男が強靭でも、いくら自分が戦える人間でも、追われる毎日は確実に二人を疲弊させていく。

アキラたちを追う者はいまやENEDの研究者だけではなかった。
個々に接触してくるものもあれば、中にはまるで軍隊を思わせる統率されたものもあり、そうやって追ってくる者たちの動きは毎回違う。
恐らく、内戦のうちに研究所の情報が外部にもれたのだろう。敵の多い組織なのは知れたことだったから驚きはないにしても。

倫理、道徳を省みず、悪魔に魂を売り渡した者たちが破滅の一途を辿った軌跡を目の当たりにしても、未だに求めるものは多く後を絶たない。
西と東に分かれ争った国がまたひとつになろうという、その為の布石に、持てる力はいくつあったとしても都合が良いということか。
あるいは平和を謳うために、狂った過去のひとかけらさえ赦さないというつもりか。
吐き気を催す推測がそれほど的はずれではないだろうことを、ニホンをでてもう何年にもなるというのに緩まない刺客の数がものがたっている。

―だがきっと、この男だけならば容易くかわせるはずの追手なのだ。

右手を握り込んだ男の左手、その手の甲に刻まれた十字架を見つめてアキラは痛みを堪えるように眉を潜めた。
もうこの能力で人を傷つけないと、彼自身がトシマを出た後自ら傷つけた。

気づけば男の身体は深いもの浅いものを構わず傷だらけだ。
いつもアキラを庇って傷を負う。殺さないと誓い立てた証を増やすように。

男がアキラを守るように、アキラにとっても男は大切で掛替えないものである。
けれど自分にはnicolのような力がない。
力のない自分にはどれだけのことができるだろうかと、不安は見過ごしても育っていく。

訳もなく時折訪れる焦燥の中にも、いつか彼が戻ってしまわないかと思う気持ちがないとはいえない。
不安定な足場がふとした弾みで崩れないかと、それだってひとつの可能性ではあるのだから。

だからこそ絶対に渡すわけにはいかないと心から思う。
身体をまもれなくても、心は離さないと誓うしか。
そうでなければ、弱い自分はすぐに折れてしまいそうだ。

圧し掛かる暗い気持ちが、静寂を味方につけて重みを増す。
逃れた後、幕間のように訪れる平穏は、こんな風に考える暇を与えるから嫌いだ。








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