はじまりの恋
決別/9
優しい風に吹かれてさわさわと揺れる木の枝と木の葉、その下では綺麗に整備された石畳が長く続く。久しぶりに来たこの場所は当たり前だがなにも変わらなくて、あれからどれくらい時間が過ぎたのか、時々わからなくなる。でも今日はいつもとは違う。一人ではないということが、これほどまでに気持ちの変化をもたらすのかと思うほど、気持ちは穏やかだった。
でも墓石の前に来ると自然と背筋が伸びる。命日に彼女のご両親が来ているのは間違いないので、お墓は綺麗なものだったけれど、やはり気持ち的にはお墓とその周りを簡単にでも掃除をして、礼は尽くしたいと思った。
「そういえば、佐樹さんのところに入ったわけじゃないんですね」
花を生けている僕の後ろで藤堂がポツリと呟いた。
「あぁ、向こうのご両親のたっての願いで実家のお墓に入れたんだ。それに僕もまだ若かったし、先があるだろうから次の奥さんが可哀想だってさ」
「なるほど」
「あ、次はないぞ」
また独り言みたいに小さく呟く藤堂を慌てて振り返れば、少し驚いた顔をされた。けれど僕の顔を見た藤堂は、ゆるりと口角を上げて目を細めると、満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫です。次には渡しません」
「……」
至極機嫌の良さげな藤堂の顔は、半分は間違いなく取り乱した僕へのからかいだ。でもそれをわかっていても、そんなことを言われてはさらに取り乱してしまう。手にした線香をバラバラと落としてしまい、あたふたしていると、藤堂の手が両肩に触れた。
「ほら、佐樹さん落ち着いて」
「お前が悪い」
隣りにしゃがみ、落ちた線香を拾い集める藤堂の横顔を睨んだら、ふいに振り返った顔がこちらに近づいた。
「ストッ……プ」
まさかこんな場所でされるとは思わなかった。触れられた唇を手のひらで覆い俯いたら、肩を抱き寄せられた。そして傾いた藤堂の頭が僕の肩に寄りかかる。寄り添うその微かな重みがひどく温かいと感じた。
「お前は今日、何回目だと」
「佐樹さん」
照れ隠しに藤堂の身体を押し戻そうとしたが、さらに強く肩を抱きしめられそれは適わなかった。こちらを見る目に言葉も途切れていく。
「愛してるよ」
耳元で優しい声が愛を囁きかける。でもその言葉に僕は返す言葉をすぐに見つけることができなかった。嬉しくて幸せで堪らないのに、声が出なかった。
「……」
「俺は佐樹さんを置いていなくなったりしないから、これからもずっとこうして傍にいさせてください」
こんな時にそんなことを言われたら、どうしたらいいかわからなくなる。ここに来るたびに寂しくて切なくて、後悔ばかりで、やりきれない気持ちばかりが膨れ上がって、時間が巻き戻ったらどれほどいいか。自分が代わりにいなくなってしまえばどれほど良かったかと、そればかり考えていた。それなのにこんなにも容易く、僕の欲しかった言葉をくれる藤堂の存在が大きくて、ずっとぐるぐると悩み続けて、鬱屈としていたはずの感情がいとも簡単に晴れていく。
喉が詰まってひどく熱い。堪えようとするほどに込み上がってくる感情に涙が溢れた。ボロボロとこぼれ落ちる涙を拭いもせずに、僕は馬鹿みたいに何度も頷いた。
「うん、ぅん、傍にいて……お願いだから、どこにも、行かないでくれ」
これからもずっと傍にいたい。離ればなれになって会えなくなったりするのはもう嫌だ。二度とそんな想いはしたくない。
「俺はずっとここにいるから」
優しい囁きに止まらない涙。藤堂の首元へ腕を伸ばして抱きつけば、そっと背を抱きしめ返してくれた。寄せられた頬が僕の涙で濡れる。それでも決して離さずにいてくれる力強い腕にひどく安堵した。
「もう僕には、お前しかいない」
これはもしかしたら藤堂を縛り付ける言葉なのかもしれない。何事もなく平凡に生きて人生を歩いていったら、先にいなくなるのは僕の方だ。それ以前に、藤堂はまだ若い。これからの道の妨げに、僕はなってしまったりしないだろうか。そんな迷いも確かにある。
でもそんな先を怖がって藤堂を手放したくない。こんなに好きなのに、こんなに誰かを好きだと思えたのは初めてなのに、この感情を押し殺してしまいたくはない。
「俺以外は、絶対に許さないから」
「藤堂?」
涙で濡れた僕の頬やまつげを拭う指先は優しいのに、その言葉はいままでで一番力強い。
「ずっと俺だけを見ていて」
そっと寄せられた藤堂の額がコツンと僕の額に当たる。間近に迫った視線は真っ直ぐと僕の目を捉えて離さない。いつもよりずっと強いその視線と、穏やかで柔らかな雰囲気を脱ぎ去ったかのような、普段とは少し違う藤堂に鼓動が早くなる。
あぁ、でもこれが本当の藤堂だ。いつものように優しく甘く抱きしめられるのも好きだけれど、この藤堂もやはり僕は好きだ。普段も気など使わず、ありのままでいてくれて構わないと思っているのだけれど、藤堂の中で何か線引きでもあるのだろうか。
「佐樹さん。大事なこと言っているのに、他のこと考えないでください」
「あ、悪い。でも考えてたのはお前のことだぞ」
「それでも、ちゃんと俺を見ていてください」
不服そうに眉をひそめた藤堂は、くしゃりと髪を乱すように僕の髪を撫でる。これも普段しない仕草だ。でも口調は既に元通りになってしまった。
「藤堂は僕に気を使ってるのか?」
「え? どういう意味ですか」
「いや、口調が違うから。やっぱり歳上だから?」
よくよく思い返せば他の歳上の人たちにも藤堂は敬語を使う。でも二人きりでいる時くらい、そういうのはなしでもいい気がするのは、僕だけが思っていることなのか。
「あ、あー、それは色々と、問題があるんです」
「問題ってなに?」
敬語を使わなきゃいけない問題ってなんだ。感情的になるとうっかり出るくらいなんだから、無理して使わなくても構わないのに、藤堂は苦笑いを浮かべるばかりだ。
「それも後で、でいいですか」
「後でっていつ?」
後で後でとなにもかも後回しで、不満をあらわにして眉をひそめると、困ったように小さなため息をつかれてしまった。
「……宿に戻ってからでお願いします」
「じゃぁ早く帰ろう」
「いや、墓参りに来たのにそんな投げやりでいいんですか?」
そそくさと、ろうそくと線香に火をつけてお墓参りを済まそうとする僕に、藤堂が少し焦ったようにこちらを見つめる。
「投げやりじゃない。ちゃんとさっき色々話しをしたからいいんだ」
掃除をした時、花を生けた時、お供えを供えた時、心の中でたくさん話をした。
一緒にいた頃は本当に幸せだと思っていたこと、悩んでいる時になにも気づいてあげられなかったのが悔やまれること、いなくなって本当に寂しくて仕方なかったこと、自分を責めて悲しんでばかりいたこと、数え切れないことを話した。でもそれもすべて今日で終わりにするんだと最後に伝えた。
「これからはお前と幸せになるからって、そう言ったからいいんだ」
「佐樹さん」
最後に二人でお墓に手を合わせてから、じっと僕を見ていた藤堂に笑いかけて、ゆっくりと立ち上がった。僕を見る藤堂は少し戸惑ったような、喜んでいるような、なんとも表現し難い表情だが、嫌な想いをしていないのならそれでいい。
「だからもういいんだよ」
元々、こうするつもりだったんだ。終わりにする、悔いも悲しみも過去にして、現在と未来だけを見据えていこうとそう思っていたんだ。この先、藤堂と当たり前に一緒にいられるようになって、平凡でなにもなくても幸せだと思える毎日を送れるようになった時、もしかしたら、またいつかここに来ることがあるかもしれない。でももちろんその時には、いままでみたいな気持ちではもうないはずだ。
「そろそろ帰ろうか」
「はい」
少し気温が下がり日も暮れ始めてきた。
来た道を二人並んで戻り石畳を歩く。でもなぜか、来た時とはなんとなく景色の色が違うように感じるのはなぜだろう。
「そういえば、佐樹さん」
「ん?」
振り返り見上げた僕に、藤堂はなぜかふっと笑みを浮かべる。その意味がわからず首を傾げたら、さりげなく手を繋がれた。
「俺と初めて会った日がいつか覚えてますか?」
「え? 初めて会った日?」
突然の質問に目を瞬かせていると、藤堂はこちらを窺うように首を傾け微笑んだ。
藤堂と初めて会ったのはいまから五年前で、確か命日から近かったはずだ。あの頃は精神的にも色々参っていた頃だから、記憶が曖昧なところがあるが、あの時、藤堂に日付を言われたような気もする。
「えっと、命日からそんなに経ってないよな。い、いつだったけ?」
あれこれ思い返そうと考えてみるものの、残念なくらい思い出せない。
「命日は六月十日ですよね? その四日後です」
「あ、そうだっ」
あの日、藤堂は四日前に病院で僕を見かけたんだと言っていた。でもなんで急にそんなことを聞くんだろうかと、訝しく思い首を傾げかけたが、僕は自分でも驚くほどの勢いで藤堂の顔を見てしまった。
「気づきました?」
「今日、今日……十四日っ」
「当たりです」
やっと気がついた。なぜあんなにも藤堂がなにもかも即決で、すぐに日程を決めてしまったのか、その理由がわかってしまった。しかしすっかり忘れてるのはやはりまずかっただろうか。ちらりと窺うように藤堂を見上げたら、さして気分を害した風でもなくにこやかに笑みを浮かべている。この笑みはどちらの意味で捉えたらいいのだろうか。
「忘れててごめん」
「いえ、いいんです。あの時は佐樹さん色々ありましたしね」
頭を下げた僕をなだめるように、藤堂は優しく僕の頭を撫でてくれる。けれどやはり覚えていなかったのは申し訳ない気がする。というよりも、僕はなにもかも覚えていなさすぎだ。数ヶ月前まで五年前に藤堂に会っていたことも、再会した時のことも忘れていたのだから、いたたまれない。これ以上なにか忘れていることはないかと、思わず記憶を掘り返したくなった。
「佐樹さんお腹空きません? 途中でご飯にしませんか?」
「あ、あぁ」
「ほら、そんな顔しないで、笑ってください」
「ちょっ……待ったっ」
うな垂れる僕に、にんまりと悪戯を思いついた子どものような顔をして近づいてきた藤堂は、突然、人の脇腹をくすぐりだした。閑静な霊園に僕の叫び声とも笑い声ともつかない声が響き渡った。
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