はじまりの恋 邂逅/13 我に返った僕は慌てて校舎内へ戻り、生徒の受付口へ走った。そしてあまりにも必死な形相で現れた僕に、受付をしていた同僚の女性たちは目を丸くしてこちらを見つめ返す。 「西岡先生? どうしたんですか」 「い、いま」 息が上がって言葉がうまく話せない。そんな僕に目を瞬かせながら、彼女たちは紙コップに入れた水を差し出してくれた。 「すいません……いま、受付に背の高い。やたらと男前な子が来ませんでした?」 「え?」 突然意味のわからない質問をされれば、驚き戸惑って当然だが、僕はそんな彼女たちの反応を尻目に、手元にある名簿に視線を落とす。しかし今日試験を受けに来ている生徒の数は、軽く見積もっても三百人弱はいる。それを見たところで彼の名前がわかるはずがない。 「格好いい子ねぇ、いまさっきの間なら二人くらいはいた気がしたけど、名前まではさすがに」 「一人はちょっと前に来たこの子だけど、もう一人は誰だったかなぁ」 うな垂れてその場にしゃがみ込んだ僕に、彼女たちは顔を見合わせて首を傾げた。指さされた名前に視線を向けるが、彼は多分違う。 「峰岸、一真」 ユウと呼ばれていたのだから、名字か名前にそれが含まれているはずだ。 さっき受験票の名前を見ておけば良かった。 「西岡先生っ」 がっくりと肩を落とした僕の背中に、慌てた間宮の声がかかる。腕時計を見れば、試験開始の十分前だった。 「悪い」 間宮に急かされながら慌てて試験場に入る。そして僕は反射的に教室内を見回してしまった。しかし、残念なことに僕の担当教室に彼はいなかった。 「これじゃ、見つけるのは無理か」 試験の合間に休憩時間はあるが、その度に他の教室を覗いて歩く訳にはいかない。 「なんだか化かされた気分だ」 結局、僕は彼を探し出すことも出来ず、その後の入学式でも彼の姿を見つけることは出来なかった。そしてせっかく思い出した感情も記憶も、整理できないまま再び胸の隅に追いやられた。 でも――彼を見つけられないのは当然だった。 写真に写る二人の藤堂は、あまりにも違い過ぎて、その事実を突きつけられなければ気づきもせず、こうして思い出しもしなかった。 「頭の中がぐちゃぐちゃだ」 写真をじっと見つめながら僕はひどく動揺していた。 あの時の彼と、藤堂が同一人物だとは思いもしなかった。あの時の藤堂に対する感情と、いまの藤堂に対する感情は全く違う。でも傍にいて欲しいと思う気持ちも、会いたいと思う気持ちも、それに違いなどない。 「同じ? 同じってなんだ」 答えの出ない疑問に頭を抱え、落ち着きなく辺りに視線をさ迷わせれば、目の前を行き過ぎる人たちが、不審そうな目をして僕を振り返っていく。 二年前の藤堂を思い出し、気づけば彼と出会った場所へ僕は来ていた。行き交うバスを見ながら、雪の日が思い起こされる。あの時、一瞬だけ目があったけれど、藤堂は僕に気づいていたのだろうか。 「でも……あの日の僕たちがあのまま一緒にいたら、きっといまのような関係にはならなかった気もする」 それこそ僕の中には親子か兄弟か、そんな情が湧いていたんじゃないだろうか。 二人の間にある空白の時間を寂しく思うが、いまの距離感を失うのはもっと寂しくて切ない。 「考えすぎて頭悪くなりそう」 ぶつぶつと呟き、いきなり立ち上がった僕に、周りの気配が微かに引いた。けれど、それさえも気に留めることが出来なくなっていた僕は、人波とは逆方向へ歩き出した自分の背後で、大きなため息をつく人物がいたことに気がつかずにいた。 「どこ行くの?」 ふいにかけられたその声に、身体が驚きで大袈裟な程飛び上がる。その声の主は、僕が振り返るのを待っているのか、じっとこちらを見つめる視線を背中に感じる。 「佐樹さん、どこに行くの?」 今度は名前を呼ばれ、思わず肩が跳ねる。握り締めていた写真がくしゃりと歪んだ。 振り返らなくてはいけない。そう思っていても、身体が金縛りにでもあったように、地面に縫い付けられ動かない。ここへ彼を呼びつけたのは自分だ。明らかに彼は僕の反応を訝しく感じているだろう。小さなため息が聞こえる。 「どうしたんですか」 「……っ」 ゆっくりと歩み寄ってきた彼の手が肩に触れ、僕の身体は小さく震えた。そしてそれを感じ取ったのか、ほんの少し彼の気配が変わる。 「佐樹さん、こっち向いて」 強引に腕を引かれ、僕は否応なしに彼を振り向いてしまった。そして彼の、藤堂の目が大きく見開かれる。 「……」 けれど藤堂の驚いた顔が見えたのは一瞬で、次の瞬間には目の前にある彼の胸元に抱き寄せられていた。 「藤堂、ここバス停」 「知ってます」 忙しなく出たり入ったりを繰り返す駅前のロータリーは、行き交う人は絶えない。そんな降車専用路では、先程まで不審そうに僕を見て通り過ぎていた視線よりも更にひどい。 すっかり陽が暮れて暗くなったとは言えども、薄明るい照明が照らすそこでは、制服姿の藤堂と彼に抱きしめられているスーツを着た自分は、否が応にも悪目立ちしてしまう。皆一様にぎょっとした表情を浮かべて過ぎていく。 「どうして、そんなに泣きそうな顔してるんですか」 「……」 「佐樹さん?」 なんと答えて良いかわからない。藤堂がひどく心配してくれているのはわかっているのに、もどかしくて、たまらず頭を胸元に擦りつけると、更に強く抱き寄せられた。藤堂の温もりがいままで以上に温かくて、本当に泣きそうになる。 「少し歩きながら話をしませんか」 俯いた頭を撫でられ、窺うように横から顔を覗かれる。そしてその視線に小さく頷けば、藤堂は僕の手を取り歩き出した。その背中が初めて出会った雨の日の記憶と重なり、胸が苦しくなった。あの日もこうして、藤堂は僕の手を引いて歩いてくれた。そして僕を家まで送り届け、またいつかと別れた。 「あの日、藤堂に会わなかったら……僕はきっとここにいなかった」 「え?」 繋がれた手を強く握り返した僕を、藤堂は訝しげな顔で振り向いた。そしてそんな藤堂の目をじっと見つめれば、それは戸惑うように大きく揺れる。 「お前が僕を生かしてくれた。それなのに、忘れてごめんな。二度目に会った雪の晩、僕はお前のこと思い出せなかった。でも藤堂が好きだって言ってくれた時は、思い出してたんだ」 「……」 目を見開いた藤堂が、時を止めたかのように固まり動かなくなった。 「藤堂がいなくなるが怖いって思うのは、ずっとみのりのことがあったからだって思ってたけど、違った」 ずっと消えない不安は彼女のせいではなかった。雪の晩に藤堂に会って、彼女を思い出したそれと一緒だ。バラバラだったいまと昔の記憶が結びついたことで、やっとそれに気づく。 「二度と忘れたりしないから……本当にもう、どこにも行くな。ずっとお前しかいないんだよ」 戸惑いの色を含み、瞳を揺らす藤堂の手を両手で握り、僕はそれを強く胸元に引き寄せた。 あの日からずっと、自分を支えてくれていたのは彼だ。例え記憶が奥底に押し込められようとも、どんなに記憶が薄れていようとも、彼を感じるだけで傍にいたいと思った。会いたいと思った。だからこそこんなに藤堂のことが好きだと思う。本当に忘れられない人は、彼女ではなく藤堂だったんだ。 「昔のことは覚えていなくても良いから、いまと、この先だけあれば良い」 いまがまた途切れてしまって、藤堂がいなくなったら――また忘れてやり直すなんて、きっともう出来ない。 「もしもお前がこの先、僕のことを好きじゃなくなったとしたら、その時はちゃんと言って欲しい。突然いなくなることは、もう絶対しないでくれ」 「……」 握りしめた手をゆっくりと解き、僕は立ち尽くす藤堂の背に腕を回して抱きついた。そして胸元にそっと頬を寄せれば、いつもよりもずっと早い心音が耳に響く。 彼のこの音は――いまも昔もずっと変わらない。この優しい音に僕は何度となく救われた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |