はじまりの恋
決別/1
慌ただしかった創立祭も終わり、そのまま今度はテスト期間へと入った。春を過ぎてからバタバタといろんなことが過ぎていく。でもあれから拍子抜けするくらいなにも起きなくなった。家でたまに顔を合わせると、向こうはなにか言いたげな顔をしているが、それでも言葉を交わすことはない。
記憶にある限り、母親はあの家では絶対権力者だった。なにをするにもあの女の言葉が最優先にされ、それを退けることは許されなかった。なにか気に入らないことがあれば、こちらの都合などお構いなしに当り散らされるのは日常茶飯事で、そんな環境の中、いつしか俺は諦めることが楽なのだと思うようになった。でもそれに耐え切れなくなった父親は、いつの間にかその絶対支配から逃げ出していた。
その時には既に実の父親でないと知ってはいたが、その日までは確かに俺の父親だった。物心ついた頃からあの女を母親と思えずにいた俺にとって、唯一の家族だったのだ。だから余計に捨てられたのだという気持ちが強かった。でもいま思えば、途中でどこか壊れた俺とは違い、あの人は本当に普通すぎるくらい普通の人だった。そんな人があの家で生きていけるわけがないのだと、今更に気がついた。
「なにもないのなら良かったですわ」
「なにもなさすぎて正直怖いけどな」
「あら、あなたに怖いものがあるなんて意外ですわ」
アイスカフェオレの入ったグラスにさしたストローをくわえ、鳥羽はどこか面白がっている様子で小さく笑った。目の前でため息を落とした俺に、ますます笑みを深くし、書き込み一つない綺麗な教科書を静かにめくる。
ここは駅構内、改札近くにあるカフェ。三十席程度ある客席は改札の傍にあることもあり、ほぼ満席。店内には同じ制服がちらほらとあり、同じように教科書とノートを広げていた。全面ガラス張りの客席から外へ視線を流せば、改札を行き来する人の波が見えた。時間は十七時半を過ぎ、会社帰りと思しきスーツ姿の人波が増えてきた。
「俺にだってそのくらいの感情はある」
もちろんそれは佐樹さんと再会してからの、ここ数年の話だけれど。
「そうでしたの、それは良かった。それよりも、あの二人の誘いを断って、私と試験勉強していて良かったのかしら」
なんでも見通していそうな、大人びた目をして鳥羽は笑う。けれどそれは不思議と居心地の悪さを感じさせない。鳥羽は俺に比べたら真っ当な人間だが、近い人間でもあるからだろう。かといって、いつも隣りで賑やかすぎるほど賑やかな、あずみと弥彦が煩わしいわけではない。あの二人はごく普通で当たり前な世界を与えてくれる。親がいて兄弟がいて家族がある、どこか優しくて温かいそんな世界。正直、眩しすぎてひどく辛く思った時期もあったが、それでもそんな中にいると、自分も不思議と人間らしくいられる気がするのだ。
「話があるって先に言ったのはお前だろう」
鳥羽に比べさして進んでいない教科書を閉じて、俺はカップを持ち上げると、温くなった珈琲を口にした。そんな俺の反応に、あら、ごめんなさいと感情のこもらない謝罪をし、鳥羽はまた笑った。本当は気づいているのだ、俺があの二人の誘いを断ることにためらいを見せたことを――。
「そうでしたわね。でもなにもないなら問題ないかしら」
「問題なくても話せ」
ノートに走らせていたシャープペンを止め、首を傾げる鳥羽に、再びため息を落とし俺はテーブルに頬杖をついた。そしてじっとこちらを見る鳥羽から逃れるように、視線を外へと向けた。
「あなたのお母様が経営する会社、ここ数年だいぶ危ない状況みたいですわよ」
「へぇ」
鳥羽の言葉に興味の欠片も感じさせない、素っ気ない声が出た。正直それほど驚きはなかった。そんなことじゃないかと、どこかで思っていたのかもしれない。よくこの数年、何事もなく動いていたと感心するくらいだ。よほど下の人間が出来ていたんだろう。
「会社自体は悪くはないようですけど、経営者の手腕の問題かしら。数年前までいらした副社長が解任されてから、会社が傾いているようですわ」
数年前まで副社長についていたのは、いまはどこにいるかわからない、俺の血の繋がらない父親だ。
「気に入らない人間を切って捨てるような女王様だけで、会社が動くわけないだろう」
「頭の悪い人間ではないけれど、人望はあまりないようですわね」
馬鹿な崇拝者でない限り、あれに尊敬など持ちようがない。鳥羽の言葉に思わず笑ってしまった。でもあの時、佐樹さんと再会しなければ、俺もあの女の歯車になっていたのかもしれない。逆らうこともなく、文句を言うこともなく、大学へ行って会社に入り、好きでもない女と結婚してそのまま人生終わっていたのかもしれない。
それがそこそこの自由と引き換えの、楽な生き方だとあの時まで思っていた。
「でもしばらくはあなたに構ってもいられないでしょうから、その間に卒業してしまえれば一番楽ですわね」
「は?」
「ですから、会社自体は悪くないって言ったでしょう?」
言葉の意味がわからず鳥羽を振り返ると、至極楽しげな様子で、満面の笑みを浮かべていた。お気に入りのおもちゃでも与えられたような、一見無邪気すぎるほど無邪気な笑みだ。けれどその笑みに隠れたものに気づき、俺はあ然とした。
「まさか社員を買収して、会社ごと乗っ取るつもりか?」
「別に、どちらが良いか選ばせてあげただけですわ」
「天秤にかけるまでもないだろう」
決して小さな会社ではないが、鳥羽のところと比べたら格が違いすぎる。そんなところから餌をぶら下げられて飛びつかない奴がいるだろうか。いや、多少条件が悪くなっても、独裁者にいつ首を切られるかとびくつきながら働くより、その元凶がいなくなってくれた方が何百倍もマシだ。
いまは鳥羽のところから圧力をかけられて、俺などに構っている場合ではないということか。このまま本当に時間が過ぎてくれればいいが、逆効果にならないことだけを祈るばかりだ。
「やることが大きすぎるんだよ」
「社会勉強ですわ」
「結局、お前の父親はお前に甘すぎる」
呆れて苦笑いをした俺に鳥羽はアイスカフェオレを飲みながら、笑みを深くするだけだった。会社の一つ、二つなど本当におもちゃのようなものなのだろう。そう思うと俺の悩みがちっぽけなもののように思えてきて、馬鹿馬鹿しくなった。
「あら?」
痛んできた頭を抑えていると、鳥羽が顔を上げて目を丸くした。
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