はじまりの恋
邂逅/11
ポツリポツリと小さな雨粒が頬へ落ち、僕はその冷たさに目を瞬かせた。気づくと僕は、道路の真ん中で一人立ち尽くしていた。行き交う車の流れは早く、どうやってここへ来たのかさえわからない。真っ暗な空の下、煌々と灯る光の渦に飲み込まれ、身体がふわりふわり揺らめいているような気もした。
けれど、そんな僕の腕を誰かが強く掴み引き寄せた。
「いまここで死んだら、貴方は楽になるかもしれないけど、後に遺された人はどうするの」
「え?」
甲高いクラクションが激しく鳴り響くその中で、突然目の前に現れた彼は、切迫した様子で僕を見つめ抱きしめる。急に現実に引き戻されたようなその感覚に、身体の力が抜け、ずるりとそれが下へ落ちていく。
「いまの自分と同じ気持ちにさせるつもり?」
「……」
あ然としたまま座り込んでいる僕に小さく息をつき、彼は力の抜けた僕の身体をおもむろに支え上げた。そして通り過ぎる車の間を縫い、彼と僕は歩道へと戻った。
「大丈夫?」
「……」
僕を見下ろす、ひどく心配げな視線を感じる。しかしロクな返事も出来ぬまま、僕は彼の両腕を掴んでいた。
「こんなに震えてるのに、よくこの道に飛び出して行けたね」
「わからない。覚えてない」
確かに彼が言うように、情けないくらい彼の袖口を掴む手はガタガタと震えていた。けれどなぜいま、自分がここにいるのかがわからない。ここはこの辺りでもかなり交通量が多い場所で、深夜でもそれは変わらずだ。人気の少なさを見れば、電車などは既に終わった時間帯なのかもしれない。
「夢遊病? もしかして良くあるの?」
「え、あ……いや」
怪訝な顔をして首を傾げた彼の仕草に、ふっと我に返る。多分これは今日が初めてじゃない気がする。
「家まで送るよ。さすがに家は覚えてるよね?」
「あぁ、でも一人で帰れる」
「じゃぁ、タクシー拾ってあげるよ」
そう言って通り過ぎようとしたタクシーに上げた彼の手を、僕はとっさに掴み引き下ろした。
「いい、タクシーは、歩いて帰るから」
「近いの?」
「……そんなに、遠くない」
あの日からなぜかタクシーに怖くて乗れない。僕が事故に遭った訳でもないのに、乗るとひどい目眩や吐き気に襲われて、どうしても乗れないのだ。
「じゃぁ、やっぱり家まで送るよ」
「まっ、待って。君は誰だ」
なんの躊躇いもなく僕の手を握り、歩き出そうとする彼を引き止めた。僕の声にゆっくりと振り向いた彼に覚えはない。
どことなく少年っぽさを感じさせる顔立ちだが、スッと通った鼻筋や切れ長の瞳に含まれる光は大人びていて、背の高い彼に見下ろされると思わずドキリとしてしまう。そしてそんな彼は、僕の声に口端を上げ小さく笑う。
「あぁ、知らないのは当然。俺が一方的に貴方を知ってるだけだから」
「……なんで?」
「六月十日、いまから四日前。あの日もいまみたいに死にそうな顔してた」
彼の口から出た日付に、心臓の辺りがひやりとして止まりそうになった。それはあの事故があった日だ。
「一人でいつまでも待合室にいたから気になって。それと、その前に色々話を聞いてしまったから、余計かな」
顔を強張らせた僕に気づいたのか、彼はすまなそうに苦笑いを浮かべる。
「ごめん、思い出したくなかったよね」
「……いや、大丈夫」
繋がれた手を優しく握り締められて、張り詰めた心臓がほんの少し緩やかな音に変わる。
彼は不可思議な雰囲気の持ち主だと思う。柔らかくて暖かい空気が、傍にいるだけで気持ちを落ち着かせる。
「君はそこで、なにをしていたんだ」
「……立ち聞きしたのは、怒らないの?」
僕の問い掛けに、彼は不思議そうな顔で首を傾げる。確かに人の家庭の事情に首を突っ込まれるのは良い気はしない。でもそれよりも、なぜかいまは目の前にいる彼のことが気になった。
「まぁ、人の家の事情を聞いておいてこっちは言わないっていうのは、ずるいか……歩いて話そう。少し身体が冷えてる」
ふいに笑った彼の表情に驚いていると、肩先が急に暖かくなった。柔らかな香りが鼻先を掠め、慌てて彼を仰ぎ見れば、またふわりと微笑まれた。
いつの間にか、彼の着ていたジャケットがしっかりと僕の肩にかけられていた。そしてそれに満足したように笑い、彼は再び僕の手を取り歩き始めた。
「あの日の晩に、あそこで俺の父親って人が死んだんだ」
「え?」
まるで世間話のような軽さで話す彼の声に驚いた。けれど彼は僕に肩をすくめて笑う。
「とは言っても、家には俺が生まれてずっと、父親をしていた人もいる」
「……それって」
「家にいるのは血の繋がらない父親で、死んだのは血の繋がりがある父親。いきなり呼び出されたあそこで、そんな人がいるってことを初めて知ったんだけどね」
「そう、だったんだ」
ふいにどこか遠くを見つめた彼の思いが、いまどれ程のものなのか、僕は知る由もない。けれど彼の揺れた瞳を見た瞬間、僕は思わず強く手を握り締めていた。
「正直、そんなことはどっちでも構わないって思った。けど、俺が思う以上にそれは厄介なことみたいで」
自嘲気味に笑う彼の表情に、先程までの少年っぽさは欠片もなく、ひどく胸が痛む。
「父親が違うと色々不都合があるらしいんだけど、母親はそれを隠して結婚したみたいでさ。でもそんなこと今頃になって俺に言われたって、どうしようもない」
肩をすくめた彼の表情は、切なくなるくらい諦めを含んだものだった。本来ならもっと、屈託なく笑える年頃のはずだ。
それなのに、彼はやけに大人びた雰囲気をまとって笑う。
「そんなの絶対におかしい。親の都合で君がうとまれるなんて理不尽だ」
「……」
呟いた僕の声に、目を細めた彼の表情からは、その気持ちを読み取ることが出来ない。馬鹿にされたと思ってしまっただろうか。同情なんて本人からすれば迷惑なだけかもしれない。
けれど――。
「そんな顔しないで、変な話を聞かせてごめん」
予想に反し彼は戸惑う僕の頬をそっと撫で、優しく笑ってくれた。
「いや、こっちが聞いたんだ……悪い」
興味本位で聞いたりした自分が嫌になる。
「そんなことないよ。貴方はすごく優しい人だ。こんな貴方を遺していった人が、ちょっと妬ましい」
「え?」
彼の言葉に僕は思わず目を瞬かせてしまった。しかし至極優しく微笑んだ彼に手を取られ、指先に口付けられる。あまりにもさり気ないその仕草に、火がついたように顔が熱くなった。
「な、なんだ」
「おまじない、かな」
「なんの?」
うろたえた僕を見て、彼は悪戯っ子のような目をして笑う。そしてまた手を握り、再び同じ場所へ唇を落とした。
「貴方が幸せになれるように」
「どうして、そんなに君は僕に優しいんだ」
彼は僕を見かけたと言っていたが、実際にはまだお互い顔を合わせるのは初めてだ。でも――彼の温かさには偽りがない気がして、疑えない。真っ直ぐな目が綺麗過ぎる。
「あの日貴方に会って、放っておけない気持ちになった。傍に行って抱き締めたいって思った。けどあんな状況じゃ、そんなことも出来ないし、だから今日会えて嬉しかったよ。場面的には、かなり焦ったけどね」
苦笑いを浮かべながらも、どこか照れたように笑う彼の表情に、僕は首を傾げた。
「それってどういう意味だ?」
「……好きなんだ。あの日から忘れられなくて」
僕が首を傾げたのと同時か、ふいに彼に腕を引かれ抱き寄せられた。彼の胸元からは、少し忙しない心音が聞こえた。
「見ず知らずの人間に、いきなりこんなこと言われても迷惑だよね」
「そんなこと、ない。けど見てわかる通り僕は男だし、それはどう意味で捉えたら良いんだろうか」
じっと僕を見つめる彼を戸惑いながら見上げると、ふいに顔を強張らせ彼が離れていった。
「……そうか。そうだよな、ごめん、いまのは聞かなかったことにして良いよ」
「なんで、いまのは嘘?」
少し泣きそうに歪んだ彼の表情に、ひどく僕は動揺した。
「嘘じゃないけど、俺の想いは貴方に相応しくない。ごめん、気持ち悪かったよね」
「違う、そんなつもりで言ったんじゃない。嫌じゃない」
彼の真っ直ぐな気持ちは、本当に嫌ではない。むしろ彼のぬくもりと優しさを感じて、出来ることならばもっと傍にいて欲しいとさえ思う。咄嗟に離れた手を掴むが、彼は僕の手を見下ろし困ったように笑った。そして僕の目を悲しそうに見つめる。
「いま、寂しい?」
「え?」
小さな彼の声で、僕はその呟かれた言葉と表情の意味を知った。
「……ごめん、寂しい。すごく寂しいよ」
「仕方ないことだから、そんなに泣きそうな顔しないで」
再び優しく抱き締めてくれる彼に、胸が痛んで息が止まりそうになる。
彼は僕を好きだと言ってくれた。それなのに、僕は寂しくて傍にいて欲しいと言った。寂しさを埋めたくて、彼の気持ちと優しさにすがろうとしたのだ。
「でも、嫌じゃない。本当に僕はそんな風に思っていない」
「じゃぁ、そうだな。もしこの先また俺と貴方が出逢えて、貴方がいまの寂しさを抱えていなかったら、もう一度言う。だからその時また、答えを聞かせて」
そっと僕の頬に口付け、彼はなだめすかすように何度も背を撫でてくれた。そんな彼の優しさに、枯れていた涙が溢れそうになった。
「それはいつだ」
「さすがにそれは、わからないけど」
問い詰めるような僕の剣幕に苦笑いを浮かべ、彼は少し思案するように首を傾げる。
「もしもいま、貴方がすべてを捨てて死んでしまっても、絶対に誰も救われない。だから俺は生きていてほしいと思うよ」
「……それは生きてれば、会えるかもしれないってことか?」
「大雑把な約束だけどね」
「それでも良い。僕はまた、君に会いたい」
愛おしむような優しい目で、僕を見つめる彼がくれた小さな約束。それが例えどんなに曖昧だったとしても、あの時の僕は嬉しいと確かに感じた。彼への想いは寂しさから来るものだったかもしれない。それでも目の前にいる彼の存在が、その時なによりも色鮮やかに見えた。
いま思えば、あの時の僕たちには、本当に互いが必要だったのかもしれない。結局あの日の出来事を、僕は一人で抱え生きて行くことが出来なかった。彼女に対する深い罪悪感と共に、生きて行くには重過ぎる感情と記憶を、心の奥底にしまい込んでしまった。
そして彼もまたそんな記憶に紛れ、僕の中から消えた。
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