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はじまりの恋
邂逅/10
 あの日は朝からひどい雨だった。いま思えば、薄暗い空と息が詰まるような湿気た空気が、更に彼女の機嫌を損ねていたような気がする。

「みのり、どこ行くの」

 玄関で見つけた後ろ姿に、訝しく思いながら声をかけると、彼女はなぜかいまにも泣きそうな顔で振り返った。

「実家に帰る。しばらく帰らないから」

「帰るって、こんな夜中に急にどうした」

 物音で目が覚めた。時計を見たら、深夜の一時を過ぎたところだった。

「もうっ、佐樹くんなんでそんなに暢気なの、なんにも考えてないんでしょっ」

 ムッと顔をしかめる彼女に首を傾げれば、ますます不機嫌そうな表情で僕を睨む。
 二、三日前からどことなく落ち着かない様子で、ずっと機嫌は悪かった。少しヒステリックになっていて、どうしてなんでと、彼女は同じことばかり繰り返し呟いていた。

「もうやだっ」

「みのり?」

 そして僕は、彼女の日々の急な変化に戸惑っていた。
 確かにいまは、どうしても不安定になりがちなものだと、そう母親たちにも言われてはいた。それでも自分にはさっぱり彼女の変化が理解出来ず、正直困惑ばかりだった。

「雨ひどいし、実家戻るなら送るよ」

「……もう良い。私、佐樹くんといると不安になるの。一緒にいても時々、貴方が見えなくなる」

「え?」

「なんで、私は貴方を好きになっちゃったんだろう」

「ちょ、みのり」

 彼女がまくし立てる言葉に驚き戸惑っていると、こちらをじっと見つめる目から涙が溢れ出しそれが零れ落ちた。そして唇を噛んで身を翻した彼女は、慌ただしく扉を開き、その向こうへと消えた。
 その時は、彼女の言っている意味が僕にはまったく理解出来なかった。でも、いつも明るく笑みを絶やさない朗らかな雰囲気を漂わせていた……そんな彼女も、頼りない僕を後ろから支えながら、大きな不安やストレスを抱えていたのだと思う。



 あ然としたまま立ち尽くしていた僕が、我に返って彼女の背を追った時には、もう既に彼女を乗せたタクシーは走り出していた。そしてあの時の会話が、彼女の声を聞いた最後のものになった。僕は呼び出された病院で、その事実を茫然としながら聞いた。まるで夢でも見ているのかと思った。

「残念ですが、奥様は先程お亡くなりになりました」

 その言葉が頭で認識されるまでどれ程の時間を要したかわからない。

「あの、子供は?」

「すみません」

 僕の声にただひたすら頭を下げ、何度も謝り去っていった看護士の後ろ姿を見つめ、やっとその意味を理解した。僕はいま、大切なものを二つ同時になくしてしまったのだということを――今頃になって理解した。毎日二人で待ち遠しく思いながら、笑っていたのはいつのことだったろうか。もう随分と遠い日のことのようにも思えてくる。
 なにが起きているのか、もうわからなくなりそうだった。

「本当に申し訳ありませんでした」

 そう謝り頭を下げる自分の母の姿さえ、遠くに感じた。そして泣き腫らした目でそれを見つめるみのりの母親の顔は、いまにも倒れてしまいそうなくらい青白かった。

「もう謝らんでください。娘は事故に遭ったんです。佐樹くんやお母さんのせいじゃない」

 父親はそう唸るような声で呟き、僕と母に視線を向けながら、難しい顔をして口をつぐむ。多分きっとそれしか言葉が見つからないのだろう。
 なぜ、こんなことになったのかわからない。

「さっちゃん、帰ろうか」

「……」

 母の声に顔を上げれば、いつの間にか待合室はがらんとしていて、もう僕たちの他にはそこに誰もいなかった。

「お義父さんとお義母さん、帰った?」

「今日はもう、お帰りになったわよ」

「そう」

 心配げな表情で自分を見つめる母の顔に息が詰まる。こんな夜遅くに呼び出され、どんな思いでこんなところまで来たのだろうか。彼女の両親を見るなり、いまにも土下座しそうな勢いで頭を下げたその姿に、たまらなくなって涙が出た。
 でも――申し訳なく思うのに、どうしてもいまはここから動ける気がしなかった。

「先に帰って、まだしばらく一人にして」

「でも」

 言い募ろうとするその声を遮り、僕はゆるりと首を振った。

「家の鍵、開けっ放しかも。確認しておいてよ」

「……さっちゃん、帰ってきてね」

「うん」

 その言葉に酷く胸が痛くなった。その中に含まれている意味をなんとなく悟りながら、僕は小さく頷いた。

「お母さん、おうちで待ってるね」

「……」

 いまはまだなにも考えたくはない。心配そうに見られる度、憐れまれる度、自分がたまらなく嫌になる。どうしてもっと早く、彼女の苦しみに気づいてあげられなかったんだろう。どうしてもっと早く僕は追いかけなかったんだろう。

「どうしたら良かった?」

 そうどんなに問いかけても。白い布を被せられた彼女は冷たく目を閉じ、もうなにも応えてはくれなかった。
 泣いて、泣き続けて、溢れ出るものがなくなって。もう涙が涸れてしまったんじゃないかとそう思った時、徐々になにかが音を立てて崩れていった気がする。すべてに薄い白い膜が張られたみたいで、何もかもが遠ざかっていった。


 そしてそんな僕の前に現れたのが、彼だった――。
 

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