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はじまりの恋
邂逅/7
 思わずじっと見つめてしまったが、彼はいまだ視線の先で歯噛みしている男を見下ろしていた。この男も諦めが悪い。しかしふいに彼が目を細め、コートのポケットへ手を入れれば、途端に尻に火がついたかのように飛び上がり、逃げ出していった。

「あ、ありがとう。助かった」

 転がるように走り去っていった男の背中を見つめていると、肩に置かれていた手が無言で離れていく。慌てて彼を振り向くが、背を向けて階段を下りていくところだった。

「ちょ、待った」

 自分でも驚くほど必死に、僕は彼の背を追いコートの端を握りしめていた。そして突然後ろへ引っ張られた彼は、ほんの少し眉間にしわを寄せて僕を振り向いた。

「悪い……あの、これ」

 目を細めたままじっと見つめられ、思わず声が上擦る。あたふたとしながら、ポケットの中に入れていた物を差し出すと、一瞬だけ彼は目を見開いてそれを見つめた。

「バス停に落ちてた。君のじゃないか」

 差し伸ばされた手のひらにライターを預けると、彼は手慣れた様子でそれを開閉したり、ぐるりと外装に視線を走らせた。

「うちのだ」

「え?」

 急にぼそりと呟かれたその言葉の意味がよくわからず、首を傾げて見れば、ふいに顔を上げた彼が、なぜか僕の頬に手を伸ばして来た。

「な、なんだ?」

 突然冷えた身体に与えられたその温もりに、思わず肩が跳ねる。そしてどれほど自分の身体が冷え切っていたのか、それを思い出してしまった脳みそが、途端に寒さを認識して一気に足元から震えが上ってきた。

「う、寒っ」

「随分と冷たいな。いつまでもこんな所に突っ立ってると風邪引く」

「……」

 冷えた僕の頬に手を当て、呟く彼の声は素っ気ない物言いだったが、心配してくれているのはなんとなく伝わる。優しくて良く通る綺麗な声だ。

「ん?」

 ぼんやり彼の声に聴き惚れていると、ふいに右の手に温かさを感じ僕は目を瞬かせた。頬から離れた彼の手が、いつの間にか僕の指先を包み込むように握っていた。

「手、痛くないか? 赤くなってる」

「えっ、あぁ……少し」

 眉をひそめた彼が冷え切った僕の指をなぞる。確かにその指先は冷たいというより、既に痛いという方が正しい。
 温めるように指先を擦り合わせる彼の手に、不思議と先程のような不快感はない。

「……あの」

「なに?」

「あ、いや」

 なにも言わずただ手を握っている彼に、思わず声をかけるが、彼は僕の問いかけに小さく首を傾げるだけだった。しかし言葉が見つからず口ごもっている僕に目を細め、急に彼は手を離し再び冷えた頬に触れる。

「このままだと、雪だるまになるよ。人待ってるなら、下で待てば?」

 突然、僕に降り積もっていた髪や肩の雪を払う彼の手を、戸惑いながら、思わずじっと目で追いかけてしまった。
 初対面の人間にここまで容易く触れられるのは初めてだ。少しは嫌悪しても良いと思うのだが、やはり顔が整っている人は得だなとしみじみしてしまう。

「誰か、待ってたんじゃなかった?」

「あ……いや、すぐ戻るって言っていたし、僕は君を探してたからもう用は」

「俺?」

 首を大きく振った僕の顔を見つめる彼が、訝しげな表情を浮かべた。けれどその反応に、ライターを握ったままだった彼の片手を指させば、あぁと小さく肩をすくめ息を吐く。

「残念、少し期待したのに」

「は? なにを」

 ポツリと呟いた言葉の意味がわからない。眉をひそめて彼を見上げれば、ふっと苦笑いを浮かべられてしまった。

「彼氏遅いな」

「え、いや、ちがっ。そんなんじゃない」

「……」

 なぜそんなに慌てたのかわからないけれど、僕はふいに後ろを向いた彼の腕を思わず掴んでしまった。

「それ、天然?」

「な、にが?」

 振り向き目を瞬かせた彼が小さく首を傾げ、それにつられるようにして僕も首を捻る。するとひどく困惑した面持ちで彼は再び苦笑いを浮かべる。

「気をつけた方がいい。また悪い男に引っかかる」

「それは、どういう意味だ?」

「……こういう意味」

 ほんの一瞬だけ、意地悪げな表情で目を細めた彼に驚いていると、ふわりと良い香りが鼻先を掠める。そしてそれがなんなのか気づいた時には、もう息が止まりそうな程、心臓が早鐘を打ち始めていた。
 突然引き寄せられ、抱き締められた身体にじわりと彼の体温が広がる。

「可愛い」

「……え?」

 突然の抱擁に狼狽している僕の耳元で、彼は笑いを噛み締め微かな声で囁いた。けれどその声はあまりにも小さく、僕は戸惑いながら首を傾げる。

「無防備過ぎるよ」

「む、ぼうび?」

 ほんの少し呆れたように笑った彼は、いまだ首を傾げている僕に困ったような顔をして、更に背を抱く腕に力を込める。

「早く帰った方がいい」

 優しく背中をさすり、軽く額を合わせた彼の仕草に驚き目を瞬かせていると、先程触れていた頬にそっと口付けられた。

「少し、熱あるんじゃない?」

「……」

 窺うように身を屈めた彼の視線に、なぜかひどく目眩がしてきた。そして額に当てられた手にまで、響いているのではないかと思うくらい、心臓が痛い。

「大丈夫?」

 しかし心配げに彼が眉をひそめた――それと同時か、階下の扉がカランと言う音と共に開かれた。
 彼の手が、温もりがゆっくりと離れていく。

「だからさぁ。知らねぇよ。あいつ気まぐれだし、さっきもふらっと出てって、にゃんこみたいに首輪付けられんなら付けときたいくらいだっての」

「電話、してくれる?」

 間延びした声に不機嫌そうな渉さんの声が続く。現れた人影に階下を見下ろせば、バスで見かけた金髪青年と渉さんが店から出てきた。

「あ、渉さん」

 やっと出てきたその姿に少しホッとする。しかし下を見た僕の視界の隅を、ふいに黒い影が横切っていく。

「……ちょ、待っ」

 そして僕は思わずその背を追いそうになった。けれど伸ばしかけた手に我に返り、僕は呼び止めかけた声を飲み込んだ。

「ミナト」

 金髪青年――ミナトに声を掛け、彼は手にしたライターをゆっくりとした仕草で放った。宙で弧を描いたそれは、振り向いたミナトの片手に収まる。

「そうか、あれはあの子のだったのか」

 ライターの行く先を見つめ、彼が呟いた言葉の意味がやっとわかった。

「ユウっ、お前どこ行ってたんだよ。お前のせいで俺、すげぇ絡まれた」

 階段を下りていく彼――ユウと呼ばれた青年に、ミナトは不機嫌そうな顔を見せながらも、顔を緩ませ抱きついた。

「嘘つけ、お前絡まれて喜んでるだろ。お近づきになりたかったんじゃないのか」

「馬鹿野郎、俺はユウ一筋だっつうの」

 抱きつくミナトに彼は肩をすくめるが、絡みついた腕などさして気にしていないのか、ちらりと視線を渉さんに向けてから、こちらを振り仰いだ。

「連れが妙なのに絡まれてたけど?」

「え……佐樹ちゃん?」

 急に顔を青ざめ、僕を見上げた渉さんが、もの凄い勢いで階段を駆け上がってきた。それを驚いて見つめていると、勢いそのままに抱き締められた。

「大丈夫? なにもなかった? ごめん、待っててなんて」

「渉さん落ち着いて、深呼吸、深呼吸して。なんにもないから、大丈夫だから」

 ぎゅうぎゅうと締め付けられる腕に、逆にどうにかなりそうだ。珍しく取り乱す渉さんの背中を叩いて落ち着かせると、やっと腕の力が緩められた。ずるずると力なく落ちた腕が腰の辺りで止まり、渉さんの頭が肩に乗せられる。なだめるようにその頭を撫でれば、小さなため息が聞こえた。

「ごめん、ホントごめん」

「大丈夫だって、なにも」

「本当に、大丈夫だった?」

 何度も何度もそう繰り返す渉さんに思わず笑ってしまう。彼はいつも僕に対して過保護なくらい心配性だ。

「渉さんありがとう。もう、用は済んだし助かった」

「うん、良かった。じゃぁ、もう帰ろ」

 小さく頷いた渉さんは再び強く僕を抱き締め、頬にすり寄るように顔を寄せる。けれどそんな彼の背をあやすように叩きながら、僕はこちらを見る視線から目を離せずにいた。

「佐樹ちゃん?」

「……ん、あぁ、帰ろう」

 訝しげに振り返ろうとした身体を制して、僕は渉さんの手を取り来た道を戻る。

「……」

 自分を見つめる視線に頭がくらりとした。彼に触れられた場所がひどく熱い。頬や身体が火照ったように熱くて、眩暈がした。でもこれは多分、錯覚――ただの風邪だ。証拠に身体が軋むみたいに痛いし、少し寒気もする。

 でも――なぜだろう。
 

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