はじまりの恋
想い/4
静かな朝に徐々に広がる喧騒。教科準備室の窓から校庭をまばらに埋める白の群れを眺め、思わずふっと頬が緩んでしまった。こちらを見上げる視線に笑みを返して軽く片手を上げれば、至極幸せそうな微笑みを返された。それだけでなんだか胸が温かくなるのはなぜだろうか。これも忘れていた気持ちの一つ、些細な小さな幸せだ。
「思ったより見えるもんだな」
いままでそんなことを考えて見下ろしていたわけではないので、意識して見下ろすと、だいぶあると思っていたその距離は思っていた以上に近く感じた。校庭から彼の姿が見えなくなるのを確認して、僕はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「おはようセンセ」
「峰岸？」
ふいに響いた声に驚き後ろを向くと、峰岸が戸口にもたれ腕組みしながらじっとこちらを見ていた。いつからいたのか、全然その気配を感じなかった。
「おはよう、ノックぐらいしろよ」
「した、センセが気づいてないだけ」
ゆっくりと近づく峰岸に眉をひそめたら、目を細め小さく笑われた。その仕草に顔に熱が集中したのがわかる。外に気を取られすぎて、峰岸が来たことに全く気が付かなかったということだ。
「さっき顧問引き継ぎの書面貰った。やってくれるんだ？」
「まぁ、本当に空いてる先生が他にいないみたいだったし」
机上に置いていた委員会で必要な承認書類が挟まったファイルを取り、目の前で立ち止まって小さく首を傾げた峰岸の胸に押し付ければ、ほんの少し驚いた表情を浮かべる。
「もう口きいてくれないかと思ってた」
「そう思うならするなよ」
小さな子供みたいな口ぶりで呟き、身を屈めてこちらの顔を覗き込もうとする峰岸を、思わずあからさまに避けてしまった。その動揺を悟られないよう、なに食わぬ顔で僕はその横を通り過ぎようとしたが、ふいに右腕を取られ引き止められた。
その瞬間、峰岸の手の感触で反射的に僕の肩が跳ね上がってしまう。
「もしかしてまだ怖い？」
ほんの少し怯んだ僕を見て峰岸は眉を寄せた。心配そうに見つめる視線に、申し訳なさが心にの中にこみ上げてくるが、原因はといえばやはり峰岸だ。
「軽くトラウマだ馬鹿」
彼に対して恐怖心はないが、やはりあの状況がフラッシュバックすると背筋が冷える。やはりあんなふうに触れられて平気なのは一人しかいない。
わざとらしく顔をしかめて睨むと、峰岸はそれを察したのか、にんまりと口端を上げて笑みを浮かべた。
「じゃぁ、今度は合意で」
「誰が合意するか」
悪戯っ子のような目で笑われるとため息しか出て来ない。この奔放さは無邪気さと一緒で、まるで小さな子供のようだ。
埒があかないと掴まれていた腕を引くが、なに食わぬ顔で肩をすくめられるだけだった。仕方ないので何度も腕を振って離すよう訴えて見せるけれど、峰岸は一向にその手を離そうとしない。
「藤堂となんかあった？」
「な、なんだよいきなり」
急に真剣な表情でこちらを見る峰岸に声が上擦る。するとまたいつものように、ゆるりと口端を上げて意地悪く笑われた。あの時の問いかけといい、峰岸には多分きっと色んなことがバレている気がする。元々は藤堂と一緒にいることもが多かったと聞いたし、その関係で僕のことを知っていてもおかしくはない。
「変に落ち着いちゃって、センセわかりやすい」
「なにがだよ」
それでも誤魔化すように眉をひそめるが、峰岸は呆れたように肩をすくめるだけだった。
「絶対駄目だと思ってたんだけど。わかんないもんだな」
ほんのわずか顔をしかめながら首を捻る峰岸は小さく息をつく。でも僕だってこんなことになるとは予想もしていなかった。僕が藤堂を選ぶなんて、ついこの間まで考えもしない、全くありえないことだったんだ。
「それよりも、わかんないのはお前の方だよ」
いまだ首を傾げている峰岸に目を細めれば、峰岸もまた首を傾げて不思議そうな表情を浮かべた。
「俺？ わかりやすいだろ」
「いや、わかりにくい」
即答すれば目を丸くしながら峰岸は驚きを露わにする。その反応にこちらまで驚いてしまった。本人は本当に自分がわかりやすい人間だと思っていたのだろうか。
「お前はわかりやすく見えて、かなり含みがあるんだよ」
この辺はなんとなく峰岸は藤堂と似ていると思う。悪い意味ではなく表側と裏側を上手に使い分けている、そんな感じだ。この二人は真逆に見えて意外と心の性質が近いのかもしれないな。いや、このマイペースさは峰岸ならではで、藤堂にここまでのマイペースさはあまり感じられないけれど。
「センセなに考えてんだ」
「え？」
ぼんやりと考え込んでいた僕の腕を引いて、峰岸はよろけた人の頬に無遠慮に口付ける。そしてその感触に我に返れば、楽しげに笑う峰岸の顔が目の前に迫った。
「それ以上やったら埋めるぞ」
しかしその声と共に、目の前にいた峰岸が勢いよく離れていった。
「いいとこだったのに、野暮だなお前」
「どこがだ」
猫のように首根っこ掴まれながらも楽しそうに笑う峰岸に対し、大きな舌打ちとため息が聞こえた。けれど峰岸は全く悪びれた様子もなく目を細める。
「藤堂？」
突然現れたそのため息の主に首を傾げれば、掴んだ襟首を引いて、彼は峰岸を自分の後方へ放った一瞬よろりとしながらも峰岸は立ち止まる。
「お前らはホント俺に遠慮がないよな」
「遠慮して欲しければ、もう少し頭使って行動しろ」
「楽しいことにしか頭働かないんだ俺は」
不機嫌な表情を浮かべる藤堂に反して、峰岸は小さく笑って肩をすくめただけだった。仲が良かったとは思いがたいやり取りだけれど、藤堂の態度がほかの誰よりも遠慮がないところを見ると、峰岸相手だと普段は裏側に隠している部分が大いに出るようだ。それだけ気を許している証拠でもある？
「藤堂どうした？ なにか用事あったけ」
少しそんな部分を垣間見て驚いてしまったが、急に目の前に立ちはだかった背中に僕は首を捻った。そして目先にあった左肘を掴んで引けばゆっくりと藤堂が振り向く。
「なにも用事はないですけど」
「え、そうか」
ふと困ったように眉を寄せた藤堂を瞬きして見れば、肘を掴んでいた手を反対側の右手で強く引っ張られた。あまりに突然のことで、腕はさほど強く引っ張られていないのに、あっという間に身体は藤堂の腕の中に収まってしまった。
「ちょ、藤堂」
峰岸の目の前でもあるこの場所で、この状況はまずい気がする。けれど慌てて身体を引くが、両腕で抱きしめられれば離れようがない。
「油断し過ぎです」
「は？ あぁ、そっか。悪い」
一瞬意味がわからず首を傾げそうになったが、苦虫を噛み潰したような藤堂の表情でそれを悟った。それはこの間、注意されたばかりの危機管理能力というやつか。でもいまでこんなことに遭遇したことがほとんどないので、あまり気をつけようがないというのが正直なところだ。いや、普通に生活していたら、やはりこんなことはそう起きない。
「センセのその隙だらけな感じがイイのに」
「お前は黙れ」
峰岸の呟きを空かさず遮る藤堂の様子に思わず苦笑いしてしまう。峰岸を引っぱたいた三島といい、この峰岸を変態呼ばわりする片平といい、本当にみんな峰岸には容赦がない。
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