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はじまりの恋
波紋/12
 扉の向こうに感じていた気配が遠ざかっていく。去っていった様子はないので、そんなに遠くへ行っていないのだろうが、こちらの呼びかけには応えなくなった。相変わらず扉はガタガタと音を立てるばかりで開きそうにもない。室内は薄暗く、どこになにがあるのかもわからなかった。
 このままでは埒があかないので、室内灯のスイッチを探して、戸に近い壁を手探ってみるが、ちっとも当たらない。確か棚の少し後ろへ隠れていた気がするのだが、いざという時、人間の記憶は曖昧で当てにならないものだ。これはもう暗闇に目が慣れるのを待つしかない。

「佐樹さん」

「ん?」

 背後にいる藤堂の気配が声とともに近づく。その呼びかけに応えるため振り向こうとしたが、後ろから伸びてきた腕に抱きしめられて、それは叶わなかった。

「少しこのままで、良いですか」

 そう言って腕に力を込める藤堂に返事をしかけて、僕はそれをやめた。なぜかいまは、なにも語ってくれるなと、背中から感じるぬくもりに言われたような気がした。本当は一体なにがどうなっているのか、藤堂に聞きたいことは山程あった。でも自分のことを悩むことが藤堂は苦手なのだと思う。そんな時はじっくりと頭の中で考えて、それからゆっくりと言葉にしていく。けれど時として、その想いは形をなさずに押し込まれることもある。
 そんな不器用な藤堂を愛おしく思うが、それとともに寂しくも思う。それはきっと、身近に自分の感情を吐露する場所が少なかったからだろう。笑顔の裏に見え隠れしていた彼の不安が、少しずつわかり始めてきた。愛情を真っ直ぐに向けてくれるその反面、藤堂はいつも僕が離れていくことを恐れていたんじゃないだろうか。だからいつでも触れて、僕という存在をその手で確かめようとする。

「あんまり自分の中に溜め込むな」

 腕を伸ばして頭を撫でてやると、それは寄り添うように僕へ傾いた。微かな重みを感じて、なぜか無性に泣きたくなる。込み上がってきたこの感情の意味を言葉にはできないけれど、藤堂のぬくもりに胸が締めつけらる想いがした。
 いままでどれだけその内に飲み込んできたんだろう。独りで闘ってきたんだろう。僕には到底、計り知れないものを抱えてきたに違いない。

「しなければならないことじゃなく、おまえのしたいことをすれば良い。ちゃんとお前が選んで良いんだ」

 それはこうして簡単に言葉にできるほど、容易いことじゃないかもしれない。母親とのやり取りだけを見ても、平坦な道は期待できないことがわかる。想像する以上に波乱に満ちているかもしれない。それでも、藤堂が自分を押し殺して生きていくことがないように、ずっと傍にいて支えていきたい。

「俺が選んだ答えは、間違っていませんでしたか?」

 まるで独り言みたいに小さく、問いかけられたその言葉に、間違いなどであってたまるか――そんな怒りにも似た感情が湧いてきた。自分の人生を自分で選び進むことが間違いであるはずがない。

「間違ってないよ」

 でもいまはそんな怒りよりもずっと、安堵の気持ちが強く心に残った。あのまま受け入れてしまうようなことにならなくて、本当に良かったと思う。

「大丈夫だ」

 二人の間でどんなやり取りがあったのか、それは想像するだけではやはりわからないことが多い。だからこれは僕の感情的な意見だ。でもたぶんきっと想像するとおり、母親からの要求は藤堂にとって良いことではないのだろう。

「でも、もしかしたら佐樹さんに」

「僕は後悔しない」

 言い淀む藤堂の声を僕は遮った。いまだ逡巡する藤堂の気持ちはわかる。もしことが公になれば、僕の立場は明らかに危ういだろう。でもそれを恐れて藤堂の一生が閉ざされてしまうことになるのは、絶対に嫌だ。

「俺の力の及ばないところで、なにが起きるか、あなたにどれだけ迷惑がかかるかもわからない」

「それでも、僕はお前と一緒にいることを、後悔したりはしないよ」

 自分の未来と愛する人――それは天秤にかけられる軽いものではない。いまはどちらかを選ばなくてはならないのかもしれない。でも僕はどちらも諦めたくはない。だから最後の最後まで足掻いて、相手がまいったと手を上げるまでしつこく粘ってみせる。

「もしもの時は一緒に考えよう。だから、一人で抱え込むな。僕はずっとお前の傍にいるから」

 これから先なにが起こるかなんてわからない。でも藤堂が僕の傍で寄り添っていてくれる限り、離れないと約束できる。矢面に立たされることよりも、藤堂の手を離すことの方が僕には辛い。

「自分の選んだ答えと僕を信じろ」

 藤堂の腕をやんわりと解き、僕は視線を合わせるよう振り返った。真っ直ぐと眼鏡の奥を見つめれば、その目は不安の色を浮かべた。

「約束する」

「え?」

 僕が差し出した小指に、藤堂は目を丸くして驚きをあらわにする。そんな表情に思わず僕が笑えば、ますます不思議そうな顔をした。

「この先なにがあっても僕は諦めない」

 これからの未来のひとつひとつ――藤堂、僕、そしてそれに関わるすべての人。どんなに辛くても苦しくても、それを諦め投げ出したりはしないと誓う。

「お前が僕と一緒にいることでなにかを諦めるのなら、僕はこれからお前とは一緒にいられない。傍にいることがお互いのプラスにならないなら、一緒にいる意味がなくなる。だからお前も諦めたりしないでくれ。僕はこれからもお前と一緒にいたい」

 もしかしたらこれはあまりにも独りよがりで一方的な約束かもしれない。けれど一緒にいるなら、少しでも互いに幸せでありたい。どちらかが我慢をしている関係なんて、いつか一緒にいることが辛くなる。

「お前になにがしてやれるのか、いまの僕にはまだわからないけど」

 不安がないといえば嘘になる。怖くはないのかと問われれば怖いと答えてしまうだろう。

「それでもお前を支えたいし、守りたいと思うよ」

 平凡で、無力な僕が出来ることなんてたかが知れている。けれどそれをわかっていても、失いたくないものがあるのだと、いまの僕は知ってしまった。

「佐樹さん」

 いつの間にか自分の手を見つめ俯いていた、僕を呼び戻す藤堂の声にふっと我に返った。

「ありがとう」

 ゆっくりと持ち上がった藤堂の手は、僕と同じ形を作り、差し出した僕の小指に強く絡みついた。小さなつなぎ目から、微笑んだ藤堂の気持ちが伝わるようで、込み上がる感情にまた泣きそうになる。
 溢れ出しかけた僕の涙を押し止めるように、藤堂の唇がきつく噛んだ僕の唇に重なる。けれど言葉以上に優しいそのぬくもりは、ますます僕の涙腺を緩めていく。

「ごめん」

「どうして謝るんですか」

「泣いてばっかりで強くなれなくて」

 僕はこんなにすぐ泣くような人間じゃなかった。こんなにも我がままに誰かを想える人間じゃなかった。だからこれから先、これ以上に想える相手など見つからないだろうと、そう思うと少し怖くもなった。

「でもお前ことが好きで、たまらない」

 こんな言葉だけでは、伝えきれないほどの愛おしさが胸を締め付ける。でもそんな痛みも不安も包み込むように抱きしめられた。

「ごめんな、僕が泣いていたらお前が泣けない」

「良いんです。俺の代わりに、佐樹さんが泣いてくれるから」

 優しく髪を梳いて囁かれたその言葉がひときわ強く胸の奥で響いた。僕が涙を流す分だけ、不器用で泣けない藤堂の心が洗われているのなら、救われる気がする。

「佐樹さんが傍にいてくれるようになって、俺は少し変わった気がします。いままで平気だったものに翻弄されたり悩んだりして、なんだか弱くなったような気もするけど、多分そうじゃなくて、自分の弱さに気づきました。大袈裟かもしれないけど、あなたといると、本当に生きてて良かったって思えるんですよ」

 生きてて、良かった。そう思うのは僕も同じだ。傍にいることでお互い少しずつ、気づき始めていたのかもしれない。自分が強い人間だなんて思ってはいなかったけれど、決して弱い人間ではないと思っていた。でも自分の中にある弱さは、肩肘を張って生きていくことに本当は疲れていた。

「そうか、良かった」

 そっと持ち上げられた指の先に口付けを落とされて、少し心が軽くなった。
 お互い弱いからこそ、支えあい寄り添っていける二人なら一人でいるよりもずっと、強くいられる。

「あなたが傍にいてくれるなら、俺も絶対に諦めたりしない」

「あぁ、約束だ」

 僕と藤堂の二度目の約束。
 あれから長く凍りついて、さざ波も立たなかった僕らの心は、お互いが触れあうたび小さな小さな波紋をいくつも描き始めていた。それは時として荒く乱れて揺れることもあるかもしれない。それでもこの繋いだ手を離さなければ、ふたりで乗り越えていけるような気がした。



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