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はじまりの恋
波紋/10
 手を握る峰岸に引かれ、来た道を戻る。手を放すタイミングを失ったら、なんだか振り解けずそのままになってしまった。こういうところも本当は良くないんだろうなと、峰岸の言葉を思い返す。
 小悪魔とかいう意味はよくわからないが、自分が良かれと思った言葉や行動が相手を傷つけたり、困らせたり、勘違いさせたりするということだろうか。自己反省すれば、心当たりが多い気もした。僕にとっては嘘や誤魔化しではないけれど、相手にとっては、それが気まぐれや不誠実に見えたり、上辺を取り繕っているようにも見えるかもしれない。いつも、なにを考えているのかわからないと言われていた、それはきっとこういうことなんだろう。でもそうすると、僕がわかりやすいと言う、藤堂たちはやはり聡いなと感心する。

「なにまた考え込んでんだよ。可愛いなぁ、ホント」

「うるさいな、可愛くない」

 笑いをこらえ喉を鳴らす峰岸に、僕は腕を引き手を振り解いた。けれどそんな僕の頭をなだめるように撫でて、峰岸はやんわりと目を細めて笑う。なぜこんなにも人に優しくできるんだろうかと、ふと問いたくなったけれど、それを聞くことはなんとなく野暮なことだと思えた。そしてそれとともに、少し心苦しくも思えた。
 確かに僕も峰岸のことは好きだと思う。もし峰岸が傷ついたり泣いたりしたら、無条件に手を差し伸べるだろう。でもやはりそれは藤堂に対する好意とは明らかに違う。

「やっぱり、峰岸は家族って感じなんだよな」

 友人という感覚とは少し違う。明良のような身近さはあるけれど、歳が離れているせいか庇護欲がある。一見すると僕なんかが守らなくても自分で立ち回れてしまいそうだが、大人びている分だけ心配にもなるのだ。
 近くで峰岸という人間を見て知らなければ、きっといま拒絶していた。でも傍で彼の本質を垣間見るたび、憎めなくなる。

「あ? 飼い犬に噛まれたくらいの感覚かよ」

「んー、そうだな」

 顔をしかめた峰岸にわざと冗談めかして言えば、肩で大きく息をつかれた。

「頷くなっつーの」

 地味に傷つく、と、苦笑いを浮かべた峰岸に、手のひらで軽く後頭部を叩かれた。けれど、先程までしょんぼりと丸まっていた背中が、いつものようにぴんと縦に伸びたのを見て、僕はほっと息を吐いた。
 そして僕に対する峰岸の想いが、自分と同じだったら良いのにと、そう思ってしまった。相変わらず僕はずるい大人だ。

「峰岸?」

 ほんの少し先を歩いていた峰岸の足が急に止まった。立ち止まった峰岸に道を塞がれ、僕もその場で足を止める。
 そこは二階へと上がる階段の手前だった。二階にある特別教室へ戻るなら、この階段を上っても遠回りにはならないが、もし懇談会を行う教室へ行くなら、このまま真っ直ぐ進み、生徒玄関と職員室前を通り過ぎなければならなかった。僕は身動きしない峰岸の横顔を見つめた。

「どうした?」

 返事をしない峰岸の視線の先が気になり、身を乗り出そうとしたが、無言のまま腕で制された。

「おい、峰岸」

「センセ、上に戻れよ」

 わけがわからず先へ進もうとする僕を、峰岸は少し乱雑に階段へと押しやった。

「なんだよ急に」

「良いから」

「……いい加減にしろよっ」

「え?」

 急に声をひそめ、慌てた様子を見せた峰岸に戸惑っていると、廊下の先、生徒玄関あたりから聞き覚えのある声が聞こえてきた。話し声というよりも怒鳴り声に近いその声に、僕は反射的に振り返った。

「行くな」

 飛び出していきそうになった僕の身体を、峰岸が引き止める。前のめりになり、生徒玄関の様子が視界に入るが、一瞬、息が止まった気がした。生徒玄関にいた人物は二人。

「馬鹿」

「……悪い」

 急激に早まる鼓動とともに冷や汗が吹き出した。いまは頭上から聞こえた、峰岸のため息にすらほっとしてしまうほどだ。生徒玄関にいる一人、聞き覚えがある声の持ち主は、間違えようもない藤堂だ。そして藤堂と向かい合い、こちらに背を向けているもう一人の人物、それは藤堂の母親だった。
 昼休憩が始まったばかりの特別教室で、その人が藤堂の母親だと、鳥羽が教えてくれた。その一見した容姿は、あまり藤堂とは似ていなく、言われなければ気づかなかっただろうと思う。

 彼女はすらりとした体型に良く似合う、ダークグリーンのタイトなワンピースを身にまとっていた。肩甲骨辺りまで伸びた、緩く波打つライトブラウンの髪をかき上げる横顔は、涼しげで、どこか冷ややかさも感じさせた。けれどひとたび笑みを浮かべると、その印象はガラリと変わる。
 光を多く含む黒目がちな目を細め、色鮮やかに染められた、ふっくらとした唇が弧を描くと、思わず見惚れてしまいそうになるほどの艶やかさを見せるのだ。その整った顔立ちと若々しく華やかな容姿は、藤堂のように大きな子どもがいることを、想像することがまったくできなかった。

「大きな声を出さないで頂戴」

 こめかみに手を当て肩をすくめる彼女は、女性にしてはあまり高くない声音だった。ゆっくりはっきりとしたその声は、随分と落ちついた印象を受ける。でもそれはどこか威圧的で、相手を突き放すような冷たさも感じた。

「あんたが勝手なことをするからだろう」

「なにを言ってるの。保護者が学校の先生に近況を報告するのは当然のことじゃない」

 それは二人の短いやりとりの中でさえも感じるほどだ。苛立った様子で声を荒げる藤堂に対し、彼女はそれをまるで他人事のように聞き流し、その怒りの意味を理解しようとしていないかに見えた。

「近況? 俺がいつ大学へ行くなんて話した」

「あなたには、私のいままでの時間を返してもらうって、言ったでしょう?」

 ため息とともに吐き出された彼女の言葉で、藤堂の表情がさらに険しくなる。

「俺は断るといったはずだ」

「あら、そうなの? てっきり承諾したのかと思ったわ。急におとなしくなったのは、そういうことじゃないの? まぁ、違うのだとしても、これから先あなたが選んでいい道はないのよ」

 もし彼女が藤堂の母親なんだと知らなかったら、言葉を交わす二人の間に、親子の縁があるなど想像もしないだろう。彼女は自分のことを母親ではなく保護者だと言った。すでにその時点で二人には隔たりがあるのだ。
 僕が過ごしてきた日常とはまったく違う藤堂の世界。それは想像するよりもずっと冷たくて、胸が痛くなる。家族と笑い合うこと、誰かと一緒に食卓を囲むこと、そんな些細なことが嬉しいと、幸せだと言っていた藤堂の気持ちが、いまになってわかる。誰もが皆、当たり前に与えられていると思ってるだろう、親からの無償の愛は、ここにはない。どうやっていままで自分を支えて生きてきたのか、考えるほどに切なくて、苦しくてたまらない。

「だから行けっていったのに」

「……」

 僕の身体を抱きとめていた峰岸の手が、そっと僕の目を覆う。手のひらで作られた小さな暗闇でまぶたを閉じると、胸の奥から湧き上がってきたものが、僕の頬を濡らした。
 悲しいわけじゃない。いまはただ、悔しくてたまらない。

「つまらない夢を追いかけてどうするの。専門学校なんて行く必要はないわ。あなたは雅明さんの養子になって、あの人が推薦してくれる大学へ行けばいいの」

 藤堂がやっと見つけた夢も未来も、意味のないものだと、切り捨てようとする。
 彼女の中には、自分の描いた道筋しかないのか。だから藤堂の人生や他のものすべて、自分の思いのままに動かす駒のひとつとしかとらえない。きっと思い通りにならないものは、力ずくでねじ伏せていく。

「俺はあの人の養子にもならないし、大学なんて冗談じゃない」

 そうしてねじ伏せられていくうちに、自分でなにかを望むことが無駄なことで、意味をなさないことなんだと錯覚する。藤堂がすぐに自分の言葉や想いを飲み込んで我慢してしまうのは、こうした日常で身に付いてしまった癖だ。

「あれも嫌これも嫌、あなたそればかりね」

 気だるそうに髪の先を指で巻きながら、彼女は藤堂の言葉に長いため息を吐きだす。

「優哉、あなた……大事なものがあるんでしょう?」

 まるで駄々をこねる子供をさとすような、呆れを含んだ声音。言葉を詰まらせた藤堂に、叫び出したい衝動に駆られた。噛み締めた奥歯が鈍い音を立てる。いま藤堂がなにを盾に取られたかは、容易に想像できた。こんなかたちで藤堂の枷になるなんて、自分の存在が心底嫌になった。
 生きる道を自分で選ぶことができない、そんな我慢をさせたくはない。そう思っていたのに、いま、藤堂が言葉をためらっているのは、きっと自分のせいだ。

「センセは悪くない」

 僕の目を覆っていた手が、なだめるみたいに頭を撫でた。でもそれが更に悔しさを助長させる。いまこうしてただ立ち止まっているだけの自分が、見てるだけの自分がもどかしくて、苦しい。

「大人しくしていれば、なにもしないわよ」

 脅迫めいた言葉で、藤堂は追いつめられたように、一瞬、顔を強ばらせた。さ迷った視線は伏せられ、じっと動かなくなる。
 頷かないでほしい、そう言葉に出来たらどんなに良いだろう。

「……」

「じゃぁ、決まりね」

 俯き唇を噛んだ藤堂の表情に、彼女は勝ち誇った満足げな笑みを浮かべた。握り締められた藤堂の拳が微かに震える。
 

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あきゅろす。
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