はじまりの恋 波紋/4 もし俺が本気になったらどうする? あの日そう言った峰岸に、ならないだろうと――俺は返した。けれどそれは間違った答えだった。あの時、峰岸が本当に求めていたのは、俺のはっきりとした否定だった。 もちろん俺が抱いた確信の通り、峰岸は本気であの人を俺から引き離そうとは、考えていなかったはずだ。ただ傾き始めていた気持ちを否定してほしくて、俺を試すようなことをわざと口にしたのだろうと、いまになって気づく。 「なんであの時に気がつかなかったんだ」 あんな場面に遭遇してからやっと気がつくなんて、自分の愚かさに腹が立つ。いつもの俺ならば、間違いなくふざけるな許すはずがないと、峰岸の望む答えを返していたはずなのに、なぜあの時に限って答えをためらってしまったんだろう。 「また泣かせた、よな」 あの人の声に振り向かずにまた逃げ出してしまった。きっと傷ついて泣いているに違いない、そう思うのに何度も同じことを繰り返してしまう。傷つけたくなどないのに、泣かせたくはないのに――いつも後悔ばかりしている自分がいる。 「出来るなら傍にいたい。他の誰かに貴方の隣りを奪われるのはごめんだ」 けれど守りたいと思えば思うほど空回り、傷つけて彼を不安にさせていく。自分の無力さがたまらなく嫌になる。どうすればあの人をこれ以上、悲しませずに済むのだろう。 いまはただ傍にいてあげることさえ俺には出来ない。俺が傍にいることで、あの人の大切なものや幸せ、笑顔もすべてを奪ってしまうかもしれない。 「こんなところにいたのね、探しましたわ」 「……っ」 しんと静まり返っていた場所に蝶番が軋む音と、ため息混じりの声が響く。その声に俺は思わず肩を跳ね上げた。 普段から二階の準備室以外は使われることの少ない旧校舎。その一階は半ば倉庫で鍵が壊れていることさえ気づかれていない。誰も来ることもないだろうと思っていたその場所へ、ふいに現れた人の気配。予期せぬことで身体に緊張が走る。 「私、手間のかかる殿方は好きじゃありませんの」 ゆっくりと背後から歩み寄る気配に振り向けば、どこか呆れたような眼差しで鳥羽がこちらへ近づいてくる。 「湿布と消毒液、どちらが必要か悩んだんですけど。こちらが正解のようね」 身構える俺の様子などまったく気にもとめずに、鳥羽は消毒液を片手に持ち、空いた手をこちらへ差し出してきた。 「屋上の扉に使われてる磨り硝子は意外と高くつくのに、本当に困った方ね。でも大人しくその左手を出してくださったら、請求はしませんわ」 にこりと微笑む表情とは裏腹に、鳥羽は有無を言わせぬ調子で握り締めた俺の左手を掴むと、微塵の遠慮さえもなくそこに消毒液を大量にこぼした。 途端に走ったしびれるような痛みに思わず顔をしかめれば、満足げな笑みを返された。 「硝子を叩き割る根性がおありなら少しは我慢してくださいね」 「相変わらずいい性格してるな」 「お褒めに預かり光栄ですわ」 用意周到に、消毒液で流れ出た硝子の破片をピンセットでつまみながら、にこにこと笑う鳥羽の姿に思わず気の抜けたため息が出てしまった。鳥羽とは一年の時に同じクラスになったことがある。大人しそうな見かけを裏切るその性格は、普通に接しているとあまり出くわすことがないが、なぜか俺はその頃からたびたび遭遇することがあった。 「峰岸になにか言われたか」 誰かの下につくようなタイプには到底思えない鳥羽が、峰岸にだけ従うのも以前からだ。 「見て来いとは言われましたけど」 「やっぱりあいつが良いのか……痛っ」 なんとなしに呟いたのと同時か、傷口を思いきりピンセットでえぐられた。 「残念ながらいくら尊敬に値する会長でも、パートナーにはごめんですわ」 「ふぅん、周りもみんなそう噂してたけど、違うのか」 明らかに迷惑そうな表情でため息をつく鳥羽の様子には嘘はない。 見た目も派手で、目立つ二人だからなおのことこんな噂が立ったのだろう。 「他人の噂なんて当てにならないものよ。私は一緒にいて癒やしを与えてくださるような方が好きなんですもの」 「確かにそれは真逆だな」 峰岸と鳥羽は性格的によく似ている。切磋琢磨して互いを高めあう相手にはなるだろうが、どう見てもそこに癒しという言葉は当てはまらない。 「会長と私は似ているから、一緒に行動するのが楽なだけですわ。仕事上のボスにはしたくても、プライベートまで一緒なんて疲れるだけ」 「そんなものか」 どんなにその場所が居心地良くても、本当に求めているものは違う。 それはなんとなくわかる気はした。自分もまた鳥羽と同じだからだ。口喧嘩はよくしていたが、元々峰岸と性格の相性は悪くない。一緒にいて楽だった。でもそれはあの人の傍にいる安堵や癒しとはまったく違う。 「会長はお父様みたいなものね」 「……父親?」 「経営者としての才覚や考えを尊敬出来ても、人として親としては落第点。小さな私を膝に乗せて、お前が男だったら良かったのになと、そう言った時はさすがにお母様も泣き崩れてましたわ」 鳥羽の父親は会社をいくつも経営するやり手の社長だと、話は聞いたことがある。仕事にのめり込むあまり家族をかえりみないというのは、良くある話だ。 「でも、私も人のことは言えませんけど」 「ふぅん」 「お父様の会社を継ぎたいと言ったら、私には普通の結婚をして幸せになってほしいと、お母様が泣くんですもの」 普通の結婚、たぶんそれは母親の夢なんだろう。自分で叶えられなかったものを娘にと想うそれは、愛情なのかエゴなのか。 「普通ってなんだろうな」 親の心など俺には到底理解できないものだ。そもそも俺に親という存在はいるのか? あれはただ単に血が繋がっているというだけの存在だ。 「……それは私にもわかりかねますわ。私は経営学を学んで早く社会に出て、経験値を増やすこと。そしてそれに突き進むのがなによりも幸せ。だからパートナーはそんな私を癒やしてくださる殿方が一番ですの」 「でも兄弟いないだろう、跡継ぎにはそれなりのものを求めるんじゃないのか」 「……」 直系が家を継ぐという固定観念は今時それほどないとしても、一人娘ならば相手に求められるものは大きいように思える。 けれど鳥羽はそんな俺の問いかけにふっと呆れたように息をついた。 「一般的には殿方が家を継いで行くものかもしれませんけど、私はパートナーにそういったことは求めていませんわ。そもそも私が継げば良いこと、そんなことに大切な方を巻き込む必要もありませんから」 「頼もしいな」 実際にこの性格では大人しく旦那の帰りを家で待つ良妻には向かないだろうと思うが、相手に癒しを求めているのであればそれはそれで成り立つ関係か。 「今日はやけにおしゃべりですわね。なにか悩みごとでもあるのかしら」 「悩み、か」 その言葉でふいによぎったざらりとした嫌な感覚に、胃がキリリと痛んだ。 「事と次第では聞いてさしあげるわよ」 「……事と次第?」 「あの方が泣かずに済むことでしたらね」 そう言って笑った鳥羽の目がすっと細められた。その表情に俺は無意識のうちに身構えていた。 「まったく、いきなり二人で横から現れたと思えば、貴方にいたってはあっさりと攫って行ってしまうんですもの。長年の乙女心をどうしてくださるの? このままでは恨みますわよ」 「なにを」 「はぐらかそうとしても無駄ですわ。他の誰の目を騙せても私を騙せるとは思わないで」 とっさに後ずさりしようとした俺に、鳥羽は掴んでいた左手を傷口に触れるようわざと握りしめた。 「まだ白を切るならこの傷口を二倍にしてあげても良くてよ? そのくらいの痛みをあの方に貴方は与えているんですもの。泣かせておいてそのままにしておくなんてこと、なさらないわよね?」 力を込めた指先で傷口が押し開かれて止まりかけていた血がにじむ。けれどジリジリとした痛みはあるが、鳥羽の言うようにあの人のことを思えばそれさえも麻痺していく。 「なるほどな。一緒にいて癒やしを与えてくれる相手、か。そうだなあの人は当てはまるかもしれないな」 これだけ何度も泣かせてきているのに、思い浮かべればいつでもあの人は優しく笑っている。そしてそんな笑顔に惹かれるのが自分だけではないとわかっていた。 目の前の恋敵は、これ以上の誤魔化しが通用する相手とは思えない。認めるしかないだろう。 「俺もあの人を泣かせたい訳じゃない。でもお前が言うように自分の都合や事情に巻き込みたくないんだ。もしそんなことになれば彼の居場所が奪われてしまうかもしれない。だからいまは傍にいることが出来ない」 「貴方の厄介ごとで先生の立場が悪くなるということかしら? ただお付き合いをしているだけでも充分すぎるほど問題ですものね」 小さく首を傾げ、思案する素振りを見せる鳥羽の様子は実に落ち着いたものだった。 「詳しくお話伺うわ。もちろん貴方のためではなくてよ」 「あぁ、わかってる」 それがたとえ一筋の光でも、あの人をこれ以上傷つけることが少しでもなくなるのなら、俺はあの人以外なにをなくしても構わない。 [*前へ][次へ#] [戻る] |