はじまりの恋
予感/6
書類の上に転がった小さな紙くずと、目を細めてこちらを見ている峰岸とを見比べれば、大きく肩を落としてため息をつかれた。
そのため息の意味がよくわからず首を傾げると、今度は指先で僕を招き寄せる。
「なんだ?」
招かれるまま峰岸の机へ近づいてみれば、唐突に腕を掴まれ峰岸の座る椅子の横へ移動させられた。
「なんだじゃねぇだろ。んなボーっとするほど暇かよ」
「……や、そういうわけじゃないぞ」
感慨を覚えてぼんやりしていたのは確かだけれど。
「ったく、世話焼ける大人だなぁセンセは」
並び立った僕をちらりと見上げ掴んだ腕を離すと、峰岸はパソコンの画面に向き直り、手慣れた様子でキーボードを叩く。途端に黙々と仕事をし始めた峰岸に戸惑いつつも、僕は邪魔にならぬよう手近の椅子を寄せてそっと画面を覗き込んだ。
「これ誰作ったんだ」
峰岸の作業する来賓リストは実に見やすく、使い勝手が良さげだった。今時のOLでもここまで綺麗に整理された表はなかなか作れないだろう。
「……俺」
やや間を置いて、峰岸がポツリと呟くような声で応える。
「ふぅん。お前こういうの得意だったんだな」
「見かけに寄らず」
「え?」
ふっと頭をよぎった言葉を、峰岸はニヤリと口端をあげて呟いた。そして僕はといえば、そんな予想外の反応にうろたえ、通常の二倍ほどの速さではないかと思えるくらいに、何度も瞬きを繰り返してしまった。
「センセいつも言ってんだろ」
顔に書いてある――そう言って笑みを深くすると、峰岸は僕の頬を軽くつまんだ。
その全く痛くも痒くもない指の感触に、なぜだか不思議な感覚を覚え、僕はじっと峰岸の顔を見つめ返していた。
「あんまり可愛い顔して見てると喰うぞ」
僕の視線に戸惑ったのか、峰岸は一瞬だけ苦笑いを浮かべると、指を離し僕の頭をおもむろに撫でる。
ほんの少し残る違和感に僕が首を傾げれば、今度は椅子を引き寄せられ尻を撫でられた。
「大胆にセクハラするな」
「……」
僕の文句に目を細め小さなため息をつきながら、峰岸は人の言葉など耳に入っていないのではないかと思うほど、遠慮なく触り続ける。
そんな無遠慮な手を払おうと身体をよじれば、囁きにも似た小さな声で峰岸が呟く。
「センセが幸せオーラだしまくりなのが悪いんだろ」
「は?」
思わず聞き返してしまいたくなるほどの小さな声だったが、ふいにその声の小ささや言葉の意味に気づき、じわりじわりと顔が熱くなった。
「センセ、前より雰囲気柔らかくなったな。壁が取れたっつーか。まぁ元々、生徒には八方美人なとこあったけど」
「そ、そんなにわかるか?」
少し前、新崎先生にもなんとなしに言われたばかりのその話に、思わず心臓が跳ねる。峰岸につられ小さな声で問えば、意地悪げな眼差しを返され、フッと鼻先で笑われた。
「わかる奴にはわかるんじゃねぇか?」
「わかる奴?」
「身近の親しい人間にはわかんだろ。あんたのこと良く見知ってんだし」
「……ふぅん、でもお前とそんなに親しい覚えないぞ」
ニヤニヤと笑う峰岸にちょっとした悪戯心で仕返しすると、ふいに目を細め更に笑みを深くされた。
「へぇ、そう言うこと言うか。そうかそうか、俺の愛情感じてねぇつーの」
ワントーン下がった峰岸の声に無意識で後ずさりすれば、ニンマリと口端を上げ、満面の笑みを浮かべた峰岸がこちらへ向き直り、人の腰を両手で掴み引き寄せようとする。
「じょ、冗談だろっ」
思わず「ぎゃー」と悲鳴を上げた僕に、唖然とした雰囲気で振り返った野上と柏木の気配を感じたが、とりあえず僕は両手を峰岸の肩に当て、腕を突っ張らせた。
「俺、学習能力ない奴……好きだぜ」
このサドがっ! と、口から出そうになったが、言葉はうまく飲み下した。目の前の笑みは機嫌の良さと共に実に黒さを感じさせる。僕はどうやら失敗をして、峰岸の変なスイッチを押したようだ。
「冗談聞けない奴は嫌いだ! 尻を触るな!」
器用に両腕で腰を抱きかかえ、人の尻を触る――どころかそれを通り越し、鷲掴みする峰岸は更に楽しげに笑う。
「減るもんじゃないだろ」
「減るっ」
「減らねぇって、こんなちっちぇケツ、減りようないって。そこら辺の女子から肉分けてもらえば」
「うるさいセクハラ大王」
薄っぺらい尻を触ってなにが楽しいのか、腕に力をこめてぎゅうっと僕の身体を抱きしめながら、峰岸は一人ケラケラと笑い出す。
「あらあら、まぁずいぶんと楽しそうですわね」
そんな中、至極のんびりとした落ち着いた声が聞こえてきた。その声に僕が振り返るのと同時か、野上がこれまた暢気な声を上げる。
「あ、ゆかりん。部活終わったの? お疲れ様ぁ」
僕らが振り返った先でニコニコと笑みを浮かべていたのは、副会長の鳥羽由香里だった。
彼女はふわふわとした栗色の髪と柔らかい茶色の瞳が相まって、フランス人形を彷彿させる美少女と言って間違いのない子だ。そんな彼女は見た目に反して純和風、茶道部の部長も兼務している。
「テスト週間まで間もないし、この仕事終わらせてしまわないとね。だから少し早めに切り上げて来ましたの。ナナちゃん、サボらずちゃんとしてた?」
楚々とした佇まいで野上の横に立った鳥羽は、小さく首を傾げ野上のパソコンを覗いた。
「俺はサボってないよ。会長はさっきからニッシーにセクハラしまくりだけどねぇ」
ちらりと鳥羽を見上げ、ため息混じりに野上がこちらへ視線を投げると、彼女は目を瞬かせ再び小さく首を傾げた。
二人の視線の先では峰岸に抱きつかれ、それを必死で引き剥がそうとする僕がいた。
「西岡先生、従順な猫ちゃんもうっかり爪が出るものだから、気をつけてくださいね」
ふふっと楽しげな笑みを浮かべて、ちらりと鳥羽は峰岸と目配せし合うと、お茶でも淹れましょう――と言いながら、生徒会室に備えつけてある申し訳程度の給湯室へ向かった。
助けてくれる気はさらさらないようだ。猫は猫でも猫科のライオン一頭、僕にどうしろというのか。
「ゆかりーん、俺ココアが良いなぁ」
「……濃い目のブラックで良いのかしら」
「う、贅沢言わずみんなと一緒で良いです」
相変わらずの光景を眺めながら、ついついため息がもれた。
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