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はじまりの恋
邂逅/18
 ふいに意識の片隅で、小さな音が響いた。

「……ん?」

 その音でボンヤリとした頭が徐々に冴え始めた。身動ぎして重たい瞼を持ち上げれば、使い慣れた枕に顔を埋めている自分に気づく。

「あ、れ? いつ寝たっけ」

 しっかりと肩までかけられた布団から腕を出し、はっきりしない頭を起こすように額に手を当てる。持ち上げた腕を目に留めて、自分がいまだ帰った時のままであることに気づいた。眉をひそめ、室内に視線を巡らせば、上着とネクタイはハンガーに掛けられているのが目端で確認出来る。
 それにしても――。

「いつ寝たんだ? 藤堂と弁当食べて、後片付けして……キッチンに入った藤堂を見てた覚えはある」

 そこでぷつりと途切れた記憶。そのままうたた寝でもしてしまったのか、だとしたら藤堂は?
 ふと過ぎった疑問に慌しく身を起こし、僕は布団を跳ねのけて部屋の戸を引いた。この部屋はリビングと戸を一枚隔てただけの部屋だが、いま向こう側から音がまったく聞こえない。先ほど微かに物音が聞こえたきりだ。

「藤堂?」

 しんとした室内、リビングの明かりは灯っている。けれどそこに藤堂の姿はなかった。見えない姿を探すように、キッチンへ視線を向けるが、明かりはなく、人の気配もない。
 静まり返ったその空間を見ていると、急に言い知れぬ不安が沸き起こり、息が詰まって止まりそうになった。一瞬くらりと目が回るが、踏み止まり、僕は急いで玄関へと足を向けた。

「え?」

 慌しくリビングの硝子扉を引いて、僕は目の前に続く廊下の先を見る。そして薄暗いその先に、懐かしい小さな背中が見えたような気がして、血の気が引いた。しかし我に返ると、震える手で玄関扉を押し開いている自分がそこにいた。

「……」

 外廊下の先で、エレベーター脇の数字がゆっくりと下りて行くのが見えた。その光が階下へ進む度、更に目眩が酷くなる。突然胃の辺りが熱くなり、込み上がってきた吐き気に、僕は思わずその場に蹲ってしまった。

「……苦し、」

 喉が引きつり息が、うまく吸い込めない。慌てて空気を吸い込もうとすればするほど、息が詰まる。
 額に滲み出した汗と、冷えていく身体に不安と焦りばかりが募った。しかし――。

「佐樹さん?」

「……っ」

 突然、後ろから聞こえた声に肩が跳ね上がった。

「どうしたんですかっ」

「……藤、堂?」

 恐る恐る振り向けば、勢い良く抱き寄せられる。そして倒れこむように藤堂の胸元に収まると、背後で静かに扉が閉まる音が聞こえた。

「佐樹さん? 大丈夫?」

 上擦った藤堂の声に動揺や焦りを感じたが、早過ぎる心音に僕はひどく安心していた。いまだ震える腕をゆっくりと伸ばして彼の背を抱けば、更に強く抱きしめ返してくれるその温もりを感じ、やっと強張ったすべてが解きほぐされていく気がした。

「藤堂」

「なんですか」

 優しく返事をしてくれる彼の名前を、僕は馬鹿みたいに何度も繰り返した。まるでそれしか知らないみたいに、何度も。けれどその度、藤堂はちっとも嫌な素振りなど見せず、優しい声で返事を返してくれる。

「すみません。まだ寝ていると思って、一人にしてしまって」

「……違、う」

 申し訳なさそうに謝る藤堂に僕はゆるりと首を振った。藤堂が悪いのではないと、そう言いたいのに吸い込んだ空気にむせ返る。そしてそんな咳き込む自分の背を、ただ黙って優しく撫でてくれる藤堂の手に、感極まりついに僕の涙腺が決壊した。

「佐樹さん、泣かないで、俺はどこにも行かないから、ちゃんとここにいます」

 突然、子供みたいに泣きじゃくる僕に、困惑する藤堂の気配を感じる。けれど一度壊れたものはそう簡単に納まりはしなくて、言葉にならない声が喉奥からもれるばかりだ。

「怖かったんですよね? 知らないうちにいなくなって、帰ってこなくなるんじゃないかって、思ったんでしょう?」

「……っ」

 怖い――彼の言う通り、確かに僕は怖いのだ。自分の知らぬ間に、誰かがここからいなくなることが、怖くて怖くて仕方がない。他のことは気持ちの整理と共に少しずつ慣れ、平気になった。でもこれだけはどうしても不安が拭いきれない。
 杞憂だということはわかっている。

「ごめん」

「どうして謝るの?」

「……お前が、好きだから」

 決して言葉にはしないが、僕の中に彼女の存在が残っていることを、藤堂が良く思っていないことは知っている。けれど彼はそんな僕に、優しく笑う。

「じゃぁ、謝らないでください。いまは俺だけだって言ってくれたでしょ」 

「言った。お前が、いい」

 藤堂でなければ嫌だ――それ以外、いまの自分には考えられない。いやいまも昔も、傍にいるのは彼が良いと、彼でなければ駄目なのだと僕はそう思った。それに、いなくなってしまうとそう思っただけで、こんなに苦しくなるのは藤堂だけだ。

「だったら俺だけ見て、俺のことだけ考えてればいい。他のことなんか見ないで」

「……ん」

 俯いた僕の頬を撫で、目尻に浮かぶ涙を拭う藤堂の指先に、茹るみたいに顔が熱くなる。それを誤魔化すよう頷けば、ふいに顔を覗き込まれそうになり、僕は思わず顔をそらした。

「佐樹さん?」

「見なくていい、いま顔ひどい」

 真っ赤になっている顔を見られるのも気恥ずかしいが、正直いまはそれ以上に涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。

「可愛い」

 肩が揺れ、藤堂がふっと笑った気配を感じたのと同時か、ふと柔らかな感触と香りが鼻先を掠める。それに驚いて目を瞬かせれば、啜る鼻をハンカチで拭われた。

「汚いから、いい」

「こんなの洗えば済むことでしょ。それよりちーんして、早くこっち向いて」

「ち、ちーんって、子ども扱いするなよっ」

 楽しげに笑う藤堂にムッと眉をひそめハンカチを掴むと、僕は鼻先を覆いながら、顔を上げて彼をジトリと睨んだ。

「目が真っ赤」

「うるさいっ」

 しかしそんな僕を満足そうに見つめ、藤堂はいまだ涙が浮かぶ目尻に口付けてくる。

「くすぐったい」

 思わず目を閉じて肩をすくめれば、唇は瞼に触れ小さなリップ音が響く。

「佐樹さんは泣いた顔も可愛いね」

「……っ、馬鹿」

 一瞬腰が抜けそうになり、慌てて身を起こして藤堂の肩を押すが、意地悪く笑った彼の腕はそれを許してはくれなかった。

「お前のそういうの、心臓に悪い」

 二人の距離が縮まる度に、自分を見る彼の優しい目や触れる手、触れる唇が甘くなっていく。そしてそれを感じる度、胸を締めつけられて……苦しくて、彼が愛おしくて堪らなくなる。

「今日は、ずっと傍にいてもいいですか?」

 耳元に甘やかな声音で囁かれて、身体が震える。

「……良いよ」

 小さく呟いた声が、自分でもわかるくらいに上擦り掠れた。

「良かった」

 嬉しそうに笑う藤堂の顔がゆっくりと近づき、ほんの少し唇が触れ合う。
 いつもなら早まり落ち着かなくなる心臓は、いまはなぜか触れた温もりに安堵を感じていた。藤堂の優しい笑みに胸が暖かくなる。

「藤堂」

「なんですか?」

「お前、さっきまでどこにいたんだ」

「え? あ、あぁ。覚えてないんですね」

 僕の問いかけに一瞬目を瞬かせた藤堂だったが、急に至極楽しげな表情を浮かべ笑い出す。

「……?」

 そしてそんな藤堂の反応に、僕は大きく首を傾げた。

「佐樹さんが、寝る前にお風呂入りたいって駄々こねるから」

 そう言って背後を指さす藤堂につられ、その先に視線を移せば、洗面所から光が微かに漏れていた。そしてしんとした中から水音が聞こえて来た。

「……あ」

 それに気づくと、途端に羞恥で顔が熱くなる。早とちりも良いところだ。

「あの時、かなりウトウトしてたから仕方ないですよ。それなのに、不安にさせるようなことしてすみません」

「恥ずかしいから謝るな」

「お風呂、一緒に入ります?」

「馬鹿っ」

 からかうように笑う藤堂の肩を押して、紅潮する顔をそらせば、ますます触れる肩が大きく揺れた。
 

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