電話の相手
椿の携帯は基本サイレントモードになっている。
以前、左京から電話があった時もそうだったが、音が鳴らなければ振動もしないように設定してあるようだ。何度かやり取りをしているのを見たことはあるが、いつも必ずそうだった。
普段通り、夕食を終えての一時。ソファで読書している椿をスケッチしていた。一息ついて、カップに手をのばそうとしたら、その横の携帯のサブディスプレイが光っていた。
「おい。光ってんぞ」
「ん?あ、本当だ?」
携帯を開いた椿が、わずかに首をかしげ文字を打ち始める。メールかと判断し、コーヒーを飲んだ。
それから紙を一枚めくり、もう少し描こうと鉛筆を手にする。と、椿が携帯を耳にあてがった。電話だったのだろうか。
まぁ、関係ない。気にせずに鉛筆を走らせていく。
「何?……あぁ、うん。聞いたんだ……え?何で?」
話ながら、パタンと読んでいた本を閉じる。
「だって、忍はもう会ったでしょ」
聞こえてきた名に、思わず顔をしかめる。こちらの様子に気づいた椿が、わずかに苦笑したが構わず鉛筆を動かした。
「そう?でも今回は左京に会いに行ったから……サエさんだっていなかったし……そうだよ……ん?何で?……え?やだ」
ちらりと一瞬、椿がこちらに視線を向ける。
「だって、どうせろくなこと言わない……そんなことあるよ。用はそれだけ?なら切るよ……え?……あぁ、うん。わかった。わかったから……うん。そっちいくから……うん。じゃあ」
ピッと、携帯を切った椿が、ふぅと息を吐く。
「……忍か?」
「ん?うん。何か、左京に会ったこと聞いたみたいで」
少し、困ったような笑みを浮かべる。
「忍はシキに会いたいって」
「…………何でだよ」
「さぁ?」
向こうだってこちらを好ましく思ってないくせに、なぜ会いたがるのか。
椿を気にかけてなのだとしても、どうせここにいるのは一時のことなのだ。今だけぐらいはそっとしといて欲しい。
ため息を吐き、それから椿が困惑顔のままこちらを見ているのが目に入った。その表情より、笑っている方がいい。
「…………お前が」
「ん?」
「会ってほしいって言うなら、考える」
きょとりと瞬いた椿が、やがて呆れながらも照れ臭そうな笑みを浮かべる。
「何、それ」
その表情に、口元が緩む。
どう反応すれば良いのかわからず、ごかすように再び本を開く。その様子に、笑いを堪えながら止まっていた鉛筆を動かし始めた。
それから数日して、テーブルの上の携帯が震動した時には驚いた。理解できずに、凝視してしまった。しかもそれに気づいた椿は、条件反射のように飛びついて。
一秒すら惜しいというように、ベランダへ駆けてく。その表情はやけに輝いていた。
何が起きたのか理解する間もない。着信があったのだと気づいたのは、ガラス戸が閉まってしばらくしてだった。
カーテンはきちんと閉じられていない。だから椿の姿が見える。話す姿はひどく嬉しそうで。あんな表情、一体誰に向けてるというのか。
以前に、サキが言っていた奴だろうか。
特別な相手なのだと容易く想像できる。震動するよう設定してるのだ。連絡があった時、すぐにそれと知りたいのだろう。
それでなくとも、あの表情。
付き合ってる奴からなのかとも考えられるが、恐らくは違うだろう。前に目撃してしまったデートの現場。その時、隣の彼女に向けていた表情より明るいのだから。
ならばやはり、サキの言っていた奴か。たった一人、執着している相手がいると言う。その人物。
ベランダに見える椿の姿。その表情。
視界に入れていたくなくて、寝室へと移動した。ベッドの上に倒れ込み、ゆっくりと息を吐き出す。
あれが自分に向けられたものなら、喜んで筆をとっていただろうに。知らない奴に向けられているというだけで、こうも。
いつものことじゃないか。
何か描いて気を紛らわそうか。けれどリビングに置いてきたスケッチブックを取りにいく気力はない。ただ瞼を閉じる。ちらつく姿を、追い出すよう努めながら。
うとうとし始めた頃、きぃとドアの開く音がした。上半身を起こすと、椿が顔を覗かせている。目が合うと中に入ってきて、隣に腰かけた。
「寝てた?」
「いや……どうした?」
「何か、戻ったらいなかったから。どっか出かけたのかと思った」
それで、わざわざ探したのかと思えば、いくらか気分は浮上する。けれど、先程の表情がちらついて。
「……やけに」
「ん?」
「嬉しそうだったな」
「あぁ、うん」
うっすらと浮かんだのは、至極幸せそうな笑み。やっぱ、言わなきゃ良かったと後悔した。
つい、と視線をそらす。
「何て言うか……憧れの人からだったから」
憧れ。
「左京の友人なんだけど……忙しい人で滅多に会えないから」
「どんな奴なんだ?」
「すごく、かっこいいよ。オレも、将来あんな人になりたい」
そういう意味でならばと、自分を納得させる。けれどそれでも、他と違い震動するよう設定してるというなら、それだけ特別な存在だと言うことで。
盗み見れば、視界に入るのは艶やかな黒髪。
「…………椿」
「ん?」
少し手をのばせば触れる距離にいる。
サキや光太だって、あれだけ普通に触れているのだ。自分だって、少しぐらい。そう、思わないこともない。けれど、手をのばせない。
以前に触れた時のことを思えば、嫌がられることはないだろうとわかる。それでも、意味もなく触れてしまって良いのか、戸惑われて。
「シキ?」
「…………いや」
チリリと指先が痺れる。手を、握りしめる。
隣にいるのに、触れられないなんて。
「なら、良かったな。連絡あって」
「うん」
喜んでいるなら、それでいいと思わなければ。何も望んでないくせに、面白くないと感じるなど。今、こうして隣にいるだけで、満足しなければならないのに。
描きたい。
せめて。それくらいしかできないから。いくら描いても描き足りない。
椿の言うかっこいいは、どんな人物を指すのだろうか。
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