初耳です
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いきなり帰ると言い出し、飛び出すように喫茶店を後にしたヤエに暫し呆然としていた。
突然、どうしたというのだろうか。ゆっくりしていきたいと言っていたのは向こうだというのに。何か用事でも思い出したのかな。
コーヒーを一口、飲む。
早く、帰りたい。早く帰って、あのソファの上で休みたいと思ってた。けれどゆったりとした時間の流れるこの喫茶店も居心地良くて。
ヤエに言われた通り、ここでゆっくりしてくのもいいななんて思ってる。
静かに流れる音楽。温かなコーヒーの薫り。ひどく癒される。何をするわけでもなく、のんびりとコーヒーを飲んでいた。
あ。
どれくらいそうしていた頃か、眺めていた窓の外に、見知った姿を見つけた。残りを飲み干し、カタリと立ち上がる。
六郷さんに声をかけ、店を出る。走りはしないけど、気持ち早足でその姿を追いかけた。
「シキ」
「あ?……あぁ、今帰りか?」
「うん。シキも?」
「あぁ」
「随分、早いね」
夕食は食べると言っていたけど、ある程度は遅くなるものと思っていた。シキはただ肩を竦めるだけで答えはしない。
「……買い物、行ってたのか?」
「え?…あ、うん」
手を伸ばされたので、少し考えてから袋を渡す。中を見たシキは満足そうな顔をした。
「汁物は?」
「けんちんにしようかなって」
首をかしげながら答えると、シキは一つ頷いた。袋を受け取ろうと手を伸ばし、けれどシキが口を開く。
「会えたのか?」
「あ、うん」
「で、怒られたと」
「あー…うん」
覚えてたのか。
隣を歩くシキをチラリと盗み見る。楽しそうに唇の端に笑みを浮かべていた。うーん。
「ライブは?」
「うん。すごくよかったよ。盛り上がってて…今年で最後なんだよね」
「やめちまうのか?」
「もともと、高校卒業するまでってことで始めたから。解散しないとしても、ボーカルだけは変わる」
「ほぅ」
「専攻はピアノだし。歌も良いけど、ピアノは本当にすごくいいよ。子供の頃からずっとやってて……って、前にも言ったっけ?」
何か話した記憶がある。けれどシキは口許に笑みを浮かべたまま、静かに聞いているだけ。まぁ、いっかと先を続けた。
「おもちゃのピアノってあるでしょ?これくらいの赤い。あれでよく遊んでて…オレが触ると怒られて」
記憶の中には、確かちゃんとした電子ピアノがあって、それで練習していた姿があるのだけれど。何故かその赤いおもちゃのピアノの印象が強かった。
「……なのにボーカルやってたのか?」
「うん。ボーカルとして声かけられたからって。歌うのも好きだから引き受けたって」
「お前は?」
「ん?」
「ピアノ。やんのか?」
「やるって言うか…教えてもらったから少し弾ける程度だよ」
「ほぅ」
「お手本通りにしかできないから。時々連弾するけど、足引っ張ってるね」
楽しいけれど。もう、その機会がないのかと思うと少し寂しい。
「芸術選択は音楽か?」
「うん。……シキは美術?」
返事はない。けれど表情を見る限り間違ってはいなさそうだ。
「今度、聴かせろよ」
「………………どこで?」
「電気屋や楽器屋に置いてあんだろ」
「いや、目立つし」
何気に人目がある。そんな所で披露できるほどの腕前も度胸もない。目立つのは、好ましくない。けれどシキは楽しそうにしたまま。何か、本当にやれと言われたら断れないような気がする。何となく。
冗談だと良いな。
「……そう言えば、今日シャーウッドに行った?」
「いや。何でだよ」
「……何となく?」
六郷さんがいたから顔出したのかなと思ったのだけれど。
でもそうか。デートだと言ってたし、そうなると会いづらいのかな。無自覚ってことはないだろうし。わざわざいる日を狙って会いに行っているのだから、無自覚なわけない。これでそうだったらある意味すごい。
まぁ、六郷さん以外の異性と話しているところを見たことないから何とも言えないけど。サエさんと桜子ちゃんは例外だよね。あの二人は女扱いしてないみたいだから。
……恋人さんといる時のシキってどんなんなんだろう。
恋人いるとか想像できないみたいなことを前に言われたけど、お互い様だ。今更だけど、シキがデートって。
「……デートって何してるの?」
「あ?」
あぁ、話がとんだ。まぁ、いいや。
「シキのデートって想像つかなくて」
「……」
一人でいるの、好きそうだし。他人とどんな会話をしているのか。何か、気になる。
「……今日は買い出しだな」
「買い出し?」
「学祭の」
短い答えに首を傾げる。
「シキのとこ、もうすぐ学祭あるの?」
「あぁ」
「美大の学祭って、やっぱり作品の展示がメイン?」
「だな」
話している内にマンションへと辿り着いた。エントランスに入り、エレベーターが降りてくるのを待つ。
「……ちゃんと参加するんだね」
「あ?」
「……そういう、皆で力を合わせて青春真っ盛りみたいなシキって、想像できない」
「……それはこっちのセリフだ」
呆れたように言われてしまった。
降りてきたエレベーターに乗り込み、ボタンを押す。何となしに隣のシキを盗み見て、目が合った。
「まぁ、去年は授業での展示だけだったな」
「……やっぱり」
最小限の、やらなければならない範囲でのみの参加か。あれ、でも……
「去年は?」
なら、今年は違うのだろうか。シキは口許に小さな笑みを浮かべた。
扉が開く。促されて先に降りる。
「今年はグループでの出展もやる」
「グループ?……あ、待って。オレが開ける」
話ながら鍵を開けようとしたシキを慌てて止める。怪訝そうな顔をされたけど構わない。
自分の鍵を取り出し、それで開ける。
「グループって、仲の良い人と?」
「……まぁ、そんなとこだ」
どことなくぼかしたような口ぶりに首をかしげる。
「……今回は、出したい絵があったからな」
「へぇ」
ダイニングに入り、シキから買い物袋を受けとる。結局、渡したきり返してもらうのを忘れていた。
「どんな絵?」
「お前の絵」
「………………え?」
冷蔵庫に中身を仕舞おうと、台所に向かいかけ足が止まる。振り返ってシキを見ると、なんて事無いような顔で追い越された。台所に入ったその背を見つめる。
てか、お前の絵ってオレの絵?
「……え?あれ出すの?」
「あぁ」
「……聞いてない」
「言ってなかったからな」
「………………」
さらりと答えられた。
……とりあえず、買ってきた物を冷蔵庫に仕舞おう。うん。
「……嫌だったか?」
「……え?」
冷蔵庫を開け中に一つづつ入れていると声をかけられた。ヤカンに火をかけているシキが、じっとこちらを見ている。
コーヒーでも淹れるのかな。
「嫌って言うか…」
確かに、あまり歓迎できる事態ではないけれど。絵とはいえ、人目に晒されるのは避けたい。好きじゃない。でも今は、いきなりの事で驚きの方が大きかった。できれば、止めてほしいけど。でも。
じっと、シキを見つめる。
「……別に、良いよ」
モデルをやったとはいえ、描いたのはシキなのだから口を出せる立場ではない。
それに、何て言うか、返事を聞いて満足そうにしているシキを見ると、悪い気はしない。むしろ妙にくすぐったいというかこそばゆいというか。
じわじわと押し寄せてくる奇妙な感覚に戸惑い、手元に視線を戻し、パタンと扉を閉める。とりあえず、早く、夕飯の準備しようかな。
チラリとシキを盗み見る。
「…………見に行っても、良い?」
「あ?あぁ…来るなら一人で来いよ」
「ん?」
「ヤエとか、連れてくんなよ」
「ん」
コクコクと頷く。
「……グループでって、何かテーマがあったりするの?」
「あぁ」
「和、とか?」
「いや」
「……違うの?」
「あぁ」
着物ぐらいが特徴だから、そうなのかと思ったのだけれど。まぁ、完成したの見てないからどんなのか知らないけど。
「……人物画、とか?」
「いいや」
否定の言葉を重ねるシキは、何故かひどく楽しそうに見えた。
「見れば、わかる」
いや、まぁ、確かにそうだけれども。
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