メガネ 漠然と、遅いと感じた。 台所の案内をしてるだけのはずなのに、サキがなかなか戻ってこない。そもそも、わざわざ付き添うほどの場所ではないのだ。 カウンター越しであれば、ここからも見える。もっとも、今現在はカーテンで仕切られていて中の様子は見えないが。 多分、何か話しているのだろう。何をかまでは見当がつかない。気にする理由もないのだ。 だと言うのに、目に映る文字がまるで意味をなさない。 気が散ってならない。 大体、前回も同じように二人きりになっていた。その時は悟が色々邪推して突撃かましてたというのに、なぜ今回は静かにしているのか。 そういや、あの後こっぴどく叱られたのだと凹んでいた記憶がある。だから、何も言わずおとなしくここに座っているのか。 横に視線を向ければ、ふてくされたような表情をしている。 何なんだ。一体。 「訊いてほしいのかよ」 「いいや」 あれだけサキに言うなと言っていたくせに。どうせ、こいつの口から出てくるサキの話など、のろけに決まっているのだ。それがどんな内容だろうと。 叱られたと、凹みながらもどことなく嬉しそうにしていたのには少し引いた。マゾに目覚めたのかと思った。 まぁ、悟が何に目覚めようとどうでもいい。 それよりもと、台所に目をやる。まだ、戻ってこない。調理具とか、どこにあるか説明してるにしても長くはないか。 一緒に料理してるとでも言うのか。 集中できない雑誌に、視線を戻そうとした時、ようやくサキがひょっこりと顔を出した。 「………何二人して辛気くさい顔してんのさ。ほら詰めて詰めて」 ぐいぐいと肩を押され、悟の方へと追いやられる。 「………悟の方に座れよ」 「えー、でも悟、今は隣にいてほしくなさそうだしー」 ねー、とにやにや笑うサキ。悟は無言で視線をそらしたので、図星なのだろう。 何をしでかしたんだ。何を。 「………サキちゃん。それより眼鏡」 「あぁ、はいはい」 胸ポケットから取り出した眼鏡。目の前を通りすぎようとしたそれに手をのばす。 普段全く意識していなかったそれをまじまじと眺めた。シルバーフレームのシンプルな眼鏡。見飽きるほどに顔をつき合わせているというのに、どんな型の眼鏡を使ってるかなんて記憶になかった。 眼鏡は顔の一部だと言う。 実際、あまりにも当たり前にありすぎて、意識することなど全くできなかった。 もし違う物を使用していても、気がつかないだろう。 ん? 「………伊達じゃねぇか」 違和感を覚えて己の顔にかけてみると、視界は変わらなかった。 「視力、悪くないのかよ」 出会った当初から悟は眼鏡で、そういうものだと思っていたから軽く騙された気分だ。 顔をしかめれば、なぜか悟は目を見開いてこちらを凝視している。 「あ?」 「あはははっ、シキ、知らなかったんだ?」 「あぁ」 「じゃあ、もしかしてよく眼鏡代えてるのにも気づいてない?」 「あ?」 何だそれ。 「ははっ、興味無さすぎ」 「ヤローの顔なんざまじまじと見るもんじゃねぇだろうが」 「そりゃそうだけどさぁ。何年の付き合いさ」 サキの言葉を聞き流し、眼鏡をなぜか固まっている悟の顔へと戻す。かけた瞬間にピクリと反応したが、すぐに視線をそらされた。 「………シキは鈍いよな。高校ぐらいの時にいつの間にか担任代わってたって言ってなかったか?」 「あー」 「鈍いどころじゃないじゃん。そんなんじゃ、モテないっしょ」 「女性は髪型やファッションの変化に気づく方が喜ぶからな」 「らしいね」 わずかにもちなおした悟と、らしいと、あくまで他人事なサキ。 「サキちゃんも…」 「あー、まぁ他人のこと言えないね。こないだ、髪ロングだった子がショートなってたのにしばらく気づかなかったし」 「へぇ?それで悟のには気づいたのか」 「あぁ、うん。眼鏡ちょっと興味あったから」 サキの返答に、悟が気落ちしている。大方、自分の事だからと言ってほしかったのだろう。くっと、喉の奥で笑いが溢れる。 「まぁ、あたしが興味あるわけじゃないけど」 「ん?」 「ん?」 今、なにか変なことを言わなかったか。そう思ったが、何事もなかったように首をかしげられた。 「シキ、悟が鼻眼鏡してても気づかないんじゃん?」 「そりゃねぇよ」 「サキちゃん、それはちょっと……」 「えー?」 楽しげに笑うサキを横目に、息を吐く。ちらりと、視線は台所へ。 一人、この場にいない人物。 「………シキ?どうした?」 「………いや…つか、そういや何いきなり呼び出してんだよ」 「あれ?聞いてない?今夕飯作ってもらってんだよ」 「そうじゃねぇ。何で作らしてんだ」 「あぁ、いつもはヤエがやってくれてんだけどさ、何か忙しいらしくて。だからイ…椿に頼んだんだよ」 サキの言葉に眉を寄せる。 そういや、こいつ前に確か椿のことをイチとか呼んでいたはずだ。それを聞いたのは一度きりで、しかもたまたま耳に残った程度だが。 その時は、悟に対してイラついていたから深くは気に留めていなかった。 その後は、当たり前のように椿と呼んでいたから忘れかけていた。 耳慣れない名を使われれば、不快になる。こいつにとっては呼び慣れない名かもしれないが、染み付いたその呼び名の方が気分が良い。 「てめぇで作りゃ良いだろ」 「それはダメだ」 「あ?」 悟の言葉に眉を寄せる。サキが声をあげて笑った。 「あはははっ、料理禁止令出てんだよ」 「は?」 どんなに不味い料理でも、サキが作ったなら悟は嬉々として食べると思ってたが。 「オレだって、できるならサキちゃんの手料理が食べたい。でも、ダメなんだ」 何がダメなんだ。どこまで下手なんだ。 悲痛な表情で項垂れる悟と、自分のことだと言うのに笑い転げているサキ。話についていけず、膝の上の雑誌を閉じた。 「シキ?どこ行くんだ?」 「飲みもん」 一応は客人だというのに、飲み物の出てくる気配は一向にない。元々、出されたこともないので当たり前だが。 「へぇ?喉、渇いたんだ?」 「………だったら何だよ」 「べっつに〜?」 含みのあるサキの物言いに、睨み付けるが軽くかわされた。何となく面白くなくて、顔をしかめたまま歩みを進める。 椿のいる、台所へと。 <> [戻る] |