就寝
たった一人だけ。
その言葉が耳に張り付いて離れない。
言っていた本人ではないのだろう。ならばいったい誰のことを指しているのか。友達はいないと、椿は言っていた。親しい奴はいるのだと、サキは言っていた。
来るもの拒まず、去るもの追わず。その性質には気づいていた。だからこそ、この場所に執着すること、‘椿’という名に拘ることに気を良くしていた。
けれど、求めるものはただ一人だけなのだとサキは言った。
ならばもし、出ていけとただ一言告げれば、あっさりと出ていってしまうのだろうか。それはひどく面白くない。
‘わがまま’を使ってまで、ここにいることを選んだのだから、そう簡単には出ていかないはず。けれど。
隣で読書をしている椿へと視線を移す。夕食を終え平素ならば穏やかに過ごしている時間帯。なのに、サキの言葉のせいで落ち着かない。
いったい、誰に執着しているというのか。
「………ん?」
ふいに椿の視線がテーブルの上の携帯に移った。手に取り画面を見つめ、首をかしげてから着信に出る。
「もしもし?……いえ。違います」
ピッと、通話を切った椿と目が合った。
「間違いか?」
「うん。………あれ?でも…」
頷いた後、何か気になることがあったのか携帯に視線を落とす。するとまた、着信を知らせるライトがつく。
「………もし…え?あぁやっぱり。でも何で…?………そう」
顔をわずかに伏せているため、どんな表情で話しているのかわからない。ただ、口調だけは優しくて。
親しい奴はいるのだという、サキの言葉が脳裏を過る。
仲のよい相手からなのだろう。サキや七里塚の奴らならばまだいい。百歩譲ってヤエからでも。
だが、知らない奴だとしたら。そう考えると奇妙なまでに胸がざわつく。
「ん?………あ、ちょっと待って」
顔を上げた椿と視線が絡み合う。わずかに困ったような微笑を浮かべ、椿はベランダへと移動した。
顔をしかめていた自覚はある。だから、場所を移したのだろう。けれど。カーテンに遮られ、見えない姿を見つめる。ほんの、数メートルしか離れていないというのに。
頭を軽く振って、膝の上のスケッチブックをどかす。緩慢な動作で立ち上がり、ベランダへと続くガラス戸を引いた。
からりと開くと冷たい夜気がするりと肌を撫でる。
「………そう?……だったら、いいなぁ」
小さく零れ落ちるような声は足元から。ガラス戸に背を預け座り込んだ椿がこちらを見上げる。
「……ん?ん。ありがとう」
手にしていたタオルケットをかけてやると、わずかに目を見開いた。台詞は電話相手になのだろうが、あまりのタイミングのよさに喉の奥で笑いをこらえる。
リビングに戻り、ソファに腰かける。カーテンの隙間から、微かに椿の背が見えた。誰と、何を話しているのか。
ここにいるのに、ここにいない奴と話しているなんて。
スケッチブックに手をのばそうとしてやめる。気が乗らない。頭を冷やすために、一風呂浴びることにした。
すっきりさせてリビングに戻ると、ちょうど椿が中に入ってくるところ。
「もういいのか?」
「ん?うん」
ガラス戸の鍵をかけ、カーテンを閉じて椿が隣に腰をかける。一息つくのを待って口を開いた。
「友達か?」
「え?……あぁ…うん」
違うとはっきり断言した時とは異なる曖昧な口調。戸惑いを含んだ台詞に、無意識の内に眉根を寄せていた。
いないと言っていたくせに。
「……クラスメイトか?」
「ううん。サエさん経由で知り合って」
「仲いいのか?」
「うん。親しくはしてたんだけど……友達って思ってくれてたみたいで」
そう告げる顔は何故か寂しげで。嫌な訳ではなさそうなその表情の意味がわからない。
「あ、そうだ。これありがとう」
「あ?あぁ…」
温もりの残ったタオルケット。寒い中、誰と何を話していたのか。穏やかな表情。静かな声がこびりつきそうになる。それを振り払うように、話をそらした。
「……そういや、寒くないのか?」
「ん?寒かったから助かったんだけど?」
首をかしげる椿に、そうじゃねぇと告げる。
「夜。寝る時」
「あぁ…でもちゃんとくるまって寝てるし」
「これからどんどん冷えるだろ」
「まぁ、そうだね」
「どうせなら一緒に寝るか?」
「あ、いいの?助かる」
「………」
「………」
さらりと告げた言葉にさらりと返される。訪れたのは何とも奇妙な沈黙。
固まったように見つめ合うこと数秒。徐々に脳が動き出す。気まずさから、ふいと視線をそらした。
別段、気まずさを覚える道理などない。なのになぜこうも居心地が悪いのか。ちらりとうかがい見れば、己の言葉を確かめるように唇に指先を触れさせていた。
「………もう寝るか?」
「……え?……あ、うん」
「風呂、入ってこいよ」
「え?」
「身体、冷えたろ」
「あ、あぁ…うん」
それじゃあとリビングを後にする椿も、心ここにあらずといった様子で。
一緒に寝るか。
そんな台詞口にするつもりなどなかった。そもそも、何が悲しくて男と同衾するというのだ。今まで付き合ってきた奴らとだって、朝までを過ごしたことなどないのに。
けれど嫌な感じはしない。
寝れるのだろうかと不安には思う。が、それは不快感からとかではなくむしろ……
ふいに脳裏にある人の面影が浮かんだ。そういや、一緒に眠るなどその人以外では初めてだ。共に暮らすのが心地よいのも。
「シキ?」
「……出たか?」
「うん」
ぼんやりと昔のことを思い出している内に、時間が経っていた。風呂上がりの椿が所在なさげにしている。
「寝るか」
「…うん」
ゆっくりと立ち上がり、リビングの明かりを消す。寝室へと入ろうとしたところで、ふと傍らに立つ椿の存在に気をとられた。
温かな湯と石鹸の香り。何故か一瞬、戸にかけた手が止まった。
「……何か」
「……あ?」
「この部屋入るの初めてだから、変な感じ」
僅かな苦笑を見せられ、肩の力が抜ける。戸惑うように首をかしげる椿に笑いかけ、室内へと導いた。
明かりのついた部屋を物珍しそうに見回す。ベッドの前で自然と足が止まり、言葉なく顔を見合わせた。
視線のみで促せば、お邪魔しますと呟きぎこちない動きでベッドに上がる。それを見届けてから、明かりを消そうと手を伸ばした。
「あ」
「ん?」
「……何でもない」
どこか様子がおかしくて、内心首をかしげたが追求せずに電気を消す。ただ何となく、真っ暗にはしないでおいた。
「……おやすみ」
「ああ」
背後から聞こえる声が妙にくすぐったい。普段並んで座っている距離と大差ないはずなのにやけに近くに感じて。身動ぎできずに瞼を閉じる。
すぐ近くの存在に、意識が向かう。
サキの言葉はいつの間にか消えていた。
触れてもいないのに、背中がひどく熱い。
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