あたたかい夢 □□□□□ 昔暮らしていたのは狭いマンションで、布団をひいてる部屋と襖一枚隔てただけでリビングだった。 だから、布団の中にいても耳を澄ませばリビングや台所の音が聞こえた。朝、夢うつつに母が朝食を作る音や、父の見ているテレビの音を聞くのが好きだった。 一日の中で一番穏やかな時間帯。 今暮らしているのは戸建の家で、自室は二階にある。どんなに耳を澄ましても一階にある台所やリビングの音は聞こえない。それを寂しいと思ったことはなかった。 ただ、急に思い出して懐かしく感じた。 深い眠りの中で、食事の支度をする音が聞こえてくる。昔の夢を見ているのだと思った。静かな足音が近づいてくる。微かに香るメンツユの匂い。ぼんやりと、素麺かなぁと思った。 すぐそばに人の気配。足の横、触れるか触れないかの位置に温もりを感じる。そして、麺をすする音。食器を動かす音が聞こえた。 やっぱり、これは夢だ。いくらなんでもこんなに近くで食事をしていた覚えはない。襖一枚の隔たりはあったのだから。 夢なら、もうしばらく覚めないでほしい。 なるべく思い出さないようにしていた情景だけれど、郷愁にかられてそう思ってしまった。もう少し。ほんの少しでいいから、この夢を見ていたい。 食事の終わる気配がした。 それでもぬくもりは変わらず近くにある。うれしくて、安心して、意識はより深いところへと沈んでいった。 暑い、と思った。 目を覚まして、少ししてから自分が肩まですっぽり布団にくるまって寝ていたのがわかった。暑いはずだ。 ゆっくりと、身を起こす。辺りを見回すと見知らぬ部屋。ソファの上だった。よくよく見てみれば着ている服も自分の物ではない。サイズが合っていない。ブカブカだ。 無意識の内に手首をさすり、首筋に触れる。ほっと小さく息を吐いた。 「……………………」 さて、ここはどこだろうか。 もう一度よく見てみるけど、やっぱり見覚えはない。誰かこの部屋の主がいるはずだから探してみようかとも思ったし、そうするべきなんだともわかっていた。 でもなんか、この場所を動きたくない。 ソファの上で膝を抱えて座る。アゴを膝の上にのせて考える。 どうしよう。 …………このままもう一眠りしてしまおうか? かなり魅力的な思い付きに、逆らう意思はまるでない。暑いとはいっても寝苦しいほどではないし、布団を被って横になろうとしたところでガチャリと音がした。 「…………」 「…………」 再び身を起こして音のした方を見る。知らない人がいた。ドアを開いて、中に入ろうとした形で止まる。目が合うとその人はわずかに目を見開いた。 けれど何も言われなかった。だから何も言わなかった。無言のまま、しばらく見つめ合う。 「………おはよ」 「………おはよ」 かけられた言葉をそのまま返す。 中に入ってきたその人は、閉めたドアに寄りかかった。腕を組んでじっとこちらを見る。脇にはノートのようなものを挟んでいた。 「水、飲むか?」 首を横に振って答えのかわりにする。 「飯は?」 もう一度、首を横に振る。 「…………誰?」 別段、変な質問じゃなかったはずなのにその人は眉をしかめた。目付き、悪いな。けど、怖い感じはしない。 「覚えてないのか?」 覚えてる?何をだろうか。どう考えてもこの人とは初対面だと思うのだけれど。 「…………聞いてるのか?椿」 無言で考えていたら、どうやら話をきちんと聞いていないと思われたようだ。けれど今のセリフ、少し引っ掛かる。 「…………つばき?」 確かにそれは好きな名だけれども、まるで名前のように呼ばれた気がした。その人の眉間のシワが深くなる。 「…………名前、椿じゃないのか?」 「……ちょっと、待って」 手で先を制して、記憶を辿ってみる。 夢を、見ていた気がする。 夢の中で、確か知らない人が優しく微笑んでいた。穏やかなその人と今目の前にいる不機嫌そうな人は、受ける印象が違う。けれど、顔つきは似てなくない。 「……シキ?」 「覚えてるのか?」 うろ覚えの名前を言ったら正解だった。と言うことは、あれは夢じゃなかったのか。 そう言えば、その時に椿の花を見た気がする。季節外れのその花を見つけて嬉しかった覚えがある。多分、その時にその名を呟いていた。花の名前として。 もうろうとした意識の中で、何を話していたかなんて覚えていない。けど、会話の流れでそれを名前だと思われたのだろう。 その勘違いは、嫌じゃない。むしろ嬉しい。 「………うん。椿」 だから、否定せずに肯定に聞こえる返事をした。正確に自分の名前を名乗ったわけではない。肯定は覚えているか否かに対してのものだから。 名前として捉えられることはわかっていた。わかっててわざとこういう言い方をした。 それでいい。 オレの名前は、椿。 <> [戻る] |