傘 「………あ」 雨。 一休みしようと、温かいコーヒーをいれてリビングに戻った。朝は晴れていたけれど、昼を過ぎた頃には灰色の雲が重たげに空を覆い始めた。 そして今、ベランダの窓に雫が当たる。カップをテーブルに置き、窓辺に近づいた。外を見れば一滴二滴と次第に雨足が強くなっていく。 あぁ、嫌だな。 灰色の空。薄暗い室内。気分が悪くなりそうだ。 勢い良く、カーテンを閉める。わずかに震える手には気づかぬふり。そしてそのままソファの上に倒れ込む。 今、シキはいない。休みのはずだったのに、誰かに呼び出されて大学まで行っている。 だから、部屋には独りきり。電気をつけそびれたので、室内は薄暗い。 窓に当たる、雨音。 パラパラ、パラパラ。 静かに音か響く。 気持ち悪い。 音楽で気を紛らせようと手をのばしてカバンを手繰り寄せた。俯せたまま中身を漁り、けれど掴んだのは携帯。 「………」 シキ。 会いたい。 早く、帰ってこないかな。 しばらく携帯を眺め、おもむろに開く。指は勝手に動いていた。 ――――――― to:シキ sub:雨 傘いる? ――――――― 送信ボタンを押した後、抱き締めるように丸くなった。瞼をかたく閉じ、返事を待つ。深い眠りを待つように。 どれくらいかたった後に、メールの着信。すぐに開いて、短い文面を読む。安堵の息が零れた。 立ち上がり、外に出る準備を。荷物なんてない。二本の傘さえあれば。 急いだところで何が変わるわけでもない。シキの到着する時間は決まっている。今出たところで早すぎるだけだというのに。それでも気持ちが急いて、自然と早足になった。 改札の外、電車が着く度にたくさんの人が降りてくる。中に入る人も時折途切れる程度で。隅の壁に目立たぬよう寄りかかっているけど、時折視線を感じる。 普段は気にしないようにしているのに、今日は雨のせいで不安が煽られる。いつものように、意識の外に追い出すことがうまくできない。 大丈夫。気にする必要ない。 息を止めて、言い聞かせる。 大丈夫だからと、ひたすら地面の上に水溜まりを作る傘の先を見つめて。 意識を内側へ内側へと向けていく。 「椿」 名を呼ばれて、意識が浮上した。忘れかけていた呼吸が元に戻る。 視線を上げれば、いつの間にかそこに待ち人がいた。気づかぬ内に、大分時間が経っていたようだ。 「………シキ、おかえり」 「おう。悪いな」 「ううん……少し濡れた?」 服がわずかに湿っているように見える。 「あぁ、駅まででな」 「そう。じゃあ、向こうまで迎えに行けばよかったね」 「ククッ」 「ん?」 「お前、そんなに―――」 「……シキ?」 不自然に途切れた言葉に首をかしげる。シキはどこか遠くを見ていた。その視線の先を追う。 「……六郷さん?」 遠目で、表情まではわからない。けれど、雨と手首の時計を見比べている。傘が、ないのだろう。でも急いでいるのか。売店はあるけれど、混んでいる。 「悪い」 「え?」 傘を持ち、シキが足早に去る。そして、傘のないまま雨の中に出ようとしていた六郷さんの腕を掴んだ。 チクリと、胸に棘が刺さる。 見ていたくなくて、視線をそらした。 わかりきって、いること。当たり前のこと。気にしても意味がない。 それでも、心はざわつく。 傘が、ないのだから仕方がない。濡れてしまっては風邪をひく。だから、そうするべき行動なのだ。何も間違っていない。 傘は二本。 人は三人。 シキは、六郷さんを送っていく。何もおかしな所はない。追いかけて、挨拶しても問題はないはずなのに、足は動かない。 だって、邪魔するわけにはいかない。 言い訳のように、心の内で呟く。そんなこと、思っていないくせに。 相手が別の人なら、こんなこと思わなかったのかもしれない。そんなことを思う自分に、嫌気がする。だって、傍にいられるだけでいいのだから。それ以上は、望んでいないから。そのはずなのに。 ………帰ろう。 誰もいない暗い部屋に、独りで。放置してきたコーヒーはきっと冷めている。それでも。 あそこにいれば、シキは必ず帰ってくる。だから。 気持ちを振り払うように傘を開こうとして、けれど横からのびた手に奪われた。 「……え?」 見れば、隣にシキがいた。バンッと軽快な音をたてて傘が開かれる。 「……何で?」 「何がだ?」 傘を開いた体勢のまま、こちらを向いたシキ。その顔を呆然と見つめる。 「……六郷さんは?」 「あぁ、バイトだと」 事も無げに言われたけれど、そういうことを訊いているんじゃない。 「送ってかなくて、良かったの?」 「あ?何でだよ」 何でって、せっかくのチャンスなのだし。 けれど、そんなことを言えるわけがなくて。口をつぐんでいると、シキが不審そうに眉を寄せた。 「………おら、行くぞ」 「え?…あ、うん」 傘を差し出され、隣に並ぶ。 二つの傘。 一つは六郷さんに。 もう一つはシキとオレ。 たった、それだけ。 それだけのことに、沈んでいた気持ちが浮上する。胸が、暖かくなる。 一つ傘の下。 いつもより近い、触れ合う距離。 > [戻る] |