雨夜の幽霊 ■■■■■ 気づけばすっかり夜が更けていた。喫茶店で軽い昼食を済ませて後、自宅で課題に取り組んだ。すっかり集中してしまったようで、時間がたつのを忘れていた。 ゆっくりと、大きく伸びをして、首をこきこきと動かす。疲れた。 リビングに入り、ソファに座る。明かりはつけずに、暗い中でしばらくぼーっとする。 このままシャワーを一浴びして寝てしまおうか。けれど夕食をとっていないので小腹が空いた。何か軽く食べようかと、冷蔵庫の中の物を思い出し、顔をしかめた。 何も、ない。 しかたがない。買いに行くか。 コンビニに行こうと家を出ると、雨が降っていた。昼間は見事なまでに晴れ渡っていたというのに。 傘をさし、夜の住宅街を歩く。降りしきる雨音だけが静かに響く。人気のない夜道が心地よい。雨のお陰で、少し涼しく感じた。上がれば、高くなった湿度で蒸すのだろうけど。 公園を抜けようと踏み込み、足が止まった。 そこに、一枚の幽霊画が、あった。 街灯に照らされた幽霊はこちらに背を向けている。雨に濡れ、けれど微動だにせずに。 息をするのも忘れていた。ただその絵に見いる。雨音がしだいに遠ざかる。 人が、一人立っているだけ。 なのにどうしてこうも目が離せないのか。景色が切り取られたように、一枚の絵になっていた。 雨に濡れた黒髪も、肌に張り付いているシャツも全てがこの世の物とは思えない。確かに目の前にいるのに存在感がまるでない。 ゆっくりと、幽霊の頭が動く。わずかに俯いていた角度から顔をあげ、こちらを向く。目が、あった。 暗く虚ろな瞳に、魂を吸いとられるような錯覚を感じた。先程までの空虚な印象は消え、強烈なまでの存在感を示している。 凄切だ。 動くことができない。息ができない。何よりも、目を離すことができない。 怨み辛みではなく、ただ深い深い悲哀。なぜこれほどまでに、心苦しくなるほどに、かなしみを湛えているのだろう。感情が、引きずられている。 辛く、苦しく、かなしい。 にもかかわらず、憎悪は一切感じられない。あるのはただ身を引き裂くばかりのかなしみ。深い奈落の底に突き落とされる。 時が止まっていた。 一瞬のことなのか、数時間もそうしていたのかわからない。終わりは唐突におとずれた。 糸の切れたマリオネットのように、幽霊はその場に崩れ落ちた。そこでようやく、我に返る。夢から覚めたかのような感覚を振り払うため、小さく首を振り、息を整える。幽霊は、まだいた。傍らの自転車にもたれ掛かるように、座り込んでいる。 先程までの異様な空気は消えていた。それでもまだ、それが生身の人間であることが信じられなくて、傘の柄を握り直してからゆっくりと近づいた。 傍によると、苦しげな呼吸が聞こえた。 やはり、生きた人間か。 安心した反面少し残念だった。 「おい、どうした?」 具合が悪そうなので、しゃがみこみ声をかけた。返事は、ない。 「家は近くか?」 しばらく待ってみたが、やはり返事はない。うつむいていて、表情もわからない。 「………具合、悪いなら今救急車を――」 埒があかないと早々に諦め、自分でどうにかすることを放棄する。代わりに救急車を呼び、後は病院の人間にすべて投げようと思った。救急車が到着するまでこの場に留まらなければならないが、その方が手っ取り早い。 けれど言葉を遮られる。 強く腕を握りしめられた。 「……や……だ…」 「…………は?」 わずかにあげられた顔。濡れた前髪の下から鋭く睨み付けられる。 「…………病…院は、や……だ。やめ……おねが……」 「……………………」 ギリギリと腕を握りしめる力が強くなる。 「………やすめば……なお、るから……」 だから救急車など絶対に呼んでくれるなと、ともすれば殺意さえ込められた視線で見つめられる。 休むつったってこの雨の中どう休んで治るというのか。言っていることが無茶苦茶だ。ただの風邪なのだとしてもここにいればこじらせて肺炎でもなったらどうする。 息も絶え絶えな様子や、夜目にもわかるほど赤くなった顔からそうとう高い熱があるのが読み取れる。 はっきり言って関わりたくなどはない。それでもこのまま放置して死なれでもしたらさすがに目覚めが悪いのだ。 「なら、家はどこだ。タクシー呼ぶから……」 言葉が途切れる。その先は言っても意味がなくなった。 幽霊が、意識を失い倒れた。とっさにその身体をささえる。 面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。なのになぜ、こんな状況に陥っている。 自分の不運を嘆きたくなった。 > [戻る] |