陰り
椿の通っている高校は大学までの一貫校だ。加えて、椿自身勉強は嫌いでないようなので、ほぼほぼ進学するのだろう。
大学は高校のすぐ横にある。一部の学部は他所にあるらしいが、うまくすれば大学在学中もいてくれるのではと。そんな、都合のいいことを考えていて、嫌なことを思い出した。
確かに、七里塚の家よりこっちの方が近いからと言っていた。けれど、だからといって、こっちで暮らさなければならないというわけではないのだ。
明日、出ていってしまったって、何ら不思議はないのだ。
ため息がこぼれる。
「幸せが逃げるわよ」
言葉と共に、コーヒーが目の前におかれる。
「何?悩み事?」
声に視線を向けると、六郷がカラカラと笑っていた。何か答えようと口を開き、言葉が見つからずそのまま閉じた。
「ちょっと、本当に大丈夫?何か悩みあるの?」
何でもないと追い払うように手を振るが、心配そうな表情のまま動こうとしない。
「………そういや、今年も行くのか?」
「え?あ、うん。その予定で準備進めてる」
「気をつけてけよ」
「気が早いなぁ。四季崎はどっか行ったりしないの?」
どこか。
椿を連れて。
「………いや」
「そ?」
去年の夏、椿は自分探しの旅と称して自転車旅行をしようとしていた。結局、体調不良で倒れて、そこをオレが拾ったわけだが。
今年も、挑戦するのだろうか。一人旅に。それとも、向こうの家に帰るのだろうか。去年のように家に引きこもっていてくれれば、思う存分描けるのに。
欲を言えば、それこそ椿を連れてどこかに行きたい。泊まりで、いつもと違う姿をひたすら描きたい。
そうして思い出すのは、あの雨の夜の姿。暗い夜、街灯に照らされて。雨に濡れて酷く虚ろな、それでいて印象的な。深い深いかなしみを湛えた姿。
「……………描きたい」
どうしても、届かない。ため息がこぼれた。
ふと、横に視線を動かすと、呆れたような表情が見えた。
「何だ。心配して損した」
……………何で描きたいとこぼすと、ことごとく呆れたような表情をされるのだろうか。
朝から雨が降っていた。
椿は歩きで通学するため、いつもより早くでた。ここからならバスもあるだろうにそうしなかったのは、バス、もしくは車そのものが苦手だからなのだろうか。そういったわけで、帰りはいつもより遅くなってしまう。
課題を進めるべきだと、わかっていた。けれど集中できず、気晴らしになればとシャーウッドに立ち寄った。時間潰しをしていくつもりでもあった。
描いても描いても足りない。むしろ描きたいという欲求が強くなるほどなのだ。描きたいものを描けていないのだから、当然なのかもしれない。
一晩中描き続ければ少しは満足できるだろうか。もう、今日は徹夜になったって構わない。椿の寝姿を描こう。
日が暮れてしまう前には帰ろうと、腰をあげた。椿ももう、帰っているだろう。雨は、止んでいた。
早く帰りたくはあるが、先日の奇行を思えば少し気を落ち着かせてからの方がよさそうだ。描きたいと、気持ちばかりが急いて何かやらかしてしまうわけにはいかない。
努めて、町並みに意識を向ける。気が紛れるようにと。
雨上がりで、土や葉の匂いが強くなっている。所々にある水溜まり。草木の水滴。曇り空。角を曲がる。
マンションまではもう一直線。その途上に、見知った制服の姿が二つ。一人が、もう一人の肩を借りるようにして歩いている。
足が、止まる。
二人の歩みは酷く遅く、見ている内についには立ち止まってしまった。肩を貸している方が、もう一人の背をさすってやっている。さすられた方は、頭をゆるく振った。髪が、さらさらと揺れる。
急ぎ、駆け寄る。
「椿」
振り返った椿は、口元を片手で覆っていて。こちらの姿を認めると、一瞬安堵の色を浮かべ、すぐにしまったとばかりに視線をそらした。その顔には、血の気がなかった。
「大丈夫かっ?」
「………平、気」
どこがだ。
口元から外された手は、隣の人物の腕を掴む。もう片方の手は肩に置かれたままで。そうやって、他人を支えにしなければ立っているのも辛いくせに。
どうせ何を訊いても、平気だ、大丈夫だとしか言うつもりはないのだろう。唇を噛み締める。無理に笑いかけようとする姿が、面白くない。
「………えっと?」
戸惑いがちな声に視線を向ける。見たことのない奴だった。クラスメイトだろうか。確か今年は、クラスによく話す奴ができたと言っていた。
「悪い。これも頼む」
そいつは椿の荷物を持っていた。ならばと、自分のカバンと傘も押し付ける。
そのまま、手を椿に伸ばす。びくりと椿の肩が揺れた。一瞬手を止めかけるが、構わず抱き上げた。
「っ、歩けるっ」
「時間がかかる」
「でもっ」
「遠慮するなら、もっと体重増えてからにしろ」
鼻で笑い飛ばしてやれば、僅かにムッとしたのがわかった。そうやって、腹をたてる気力があることに安堵する。
隣の奴は、ほら見ろみたいな顔をしていた。
「荷物、部屋まで頼めるか?」
「はい。もちろんですよ」
一度バランスを取り直す。視線を落とせば、こちらをじっと見る椿の瞳は何故か不安に揺れていた。
「いいから、おとなしくしていろ」
何かに耐えるように表情を歪め、椿は顔を肩に押し付ける。酷く掠れた声で、ありがとうと聞こえた気がした。
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