温もり ■■■■■ 抱きしめたいと、言ってしまいそうになった。 戸惑いながらも、嬉しそうにしていた。楽しいと、そう言ってくれた。その気持ちのまま、一日の終わりを迎えさせたかった。 相手を認識した瞬間、気分が急下降した。台無しだと思った。煩わしくて、早く立ち去りたくて。そんな思いが態度に出てたのだろう。椿に気を使わせてしまった。 それでもって自己嫌悪に陥って、さらに心配させたのだから世話がない。けれど。 何時だったか、抱きしめるようにして光太を落ち着かせていた。サエの我慢が切れた時には駆けつけていた。ならば、もし、 ……もし、オレが落ち込んだ時には、抱きしめてくれるだろうか。抱きしめさせて、くれるだろうか。そう、考えてしまったことがある。 きっと、だからだ。椿がオレを喜ばせたいと、力になりたいと必死な様子で告げてきたとき、抱きしめたいと思わず言ってしまいそうになったのは。今なら、許されるんじゃないかと。 どうにか、別の言葉に変えた。変えた言葉も、大差ない物だったが。 返事を聞きたくなくて。反応を見たくなくて。訊ねておきながら、答えの前に行動に移した。驚き、強ばった身体。けれど、拒絶されることはなかった。そのことに安堵した。 肩に置いた手を、背中に回してしまいたかった。強く拳を握り、どうにか耐える。 少しずつ、椿の身体から力が抜けていく。そうして、遠慮がちに、けれど労るようにそっと頬をすり寄せてきた。 その時の温もりが、まだ残っている。 紙をめくる。鉛筆を動かす。目の前の葉を描き写していく。 先日の出来事が頭から離れない。無心になりたくて手を動かしているのに、どうしたって思い出してしまう。 必死な表情。触れた温もり。戸惑いに揺れる瞳。 「………………描きてぇ」 「えっ?」 「あ?」 こぼれた言葉に、驚きの声があがった。見れば何故かすぐ横に黒沼が。思わず顔をしかめる。 「今何時だかわかってる?」 呆れ顔で言われて、時計を確認する。 「…………帰るか」 「こんだけ描き続けときながら、まだ足りないとか」 無視して、スケッチブックと鉛筆をしまう。 昼過ぎに、椿から今日は少し帰るのが遅くなると連絡があった。だから時間つぶしの意味合いも少しあったわけだが。流石にこの時間なら、家につく頃には椿ももう帰っているだろう。 歩き始める。ついてこられた。 「…………」 「用があるんだって」 こっちはない。 「四季崎が返事くれないから、打ち合わせの日時すら決まらない」 「あー……任せ」 「任せるはなしー」 やれやれと首を振られた。 「それが許されるなら、オレだって全投げしてるってー」 「……何時だっけか」 「メールを見てすらいないとは」 「覚えてねぇだけで、見はした」 返事を聞くより自分で確認した方が早いと、歩きながら携帯を取り出す。 「……平気だ」 「んー。わかった」 「…………んだよ」 何か言いたそうな目をじっと向けられた。顔をしかめれば、諦めるようなため息をついてくる。 「それ、いったい何日前に送ったと」 「…………」 「充電、あまり切らさないようにはなったみたいだけど、結局いつまでたっても返信しないなら意味ないよね」 ふいっと、顔を背ける。 すぐに返信することだってある。ただ、その相手が限られているだけだ。 「オレさぁ、周りの人に面倒見てもらうのが好きなんだよ」 「あ?」 突然、何を言い出すのか。 見れば、眉間にしわ寄せて真っ直ぐ前を向いていた。どことなく、面白くなさそうな表情をしている。 「なのにここでは、オレが四季崎の面倒見るみたいに周りに思われてるみたいで、なーんか、納得いかない」 「誰が……」 「下の子が生まれたら、上の子はしっかりするって言うじゃん」 「………………」 先ほどとは一転して、楽しげな表情になる。何か、良いことでも思いついたように。声もわずかながら弾んでいるが、言っていることは訳が分からない。 「こんな感じなのかな?」 「誰と誰が兄弟だ」 「オレと四季崎。お兄ちゃんって呼んでも良いよ?」 「誰が呼ぶか」 くだらないと息を吐き捨てる。 「じゃあ、打ち合わせ忘れないでねー……って本当ならこれもオレが言われる側なのになー」 適当に手を振り返し、バス停で別れる。 まだ納得できないといった様子だが、今まで言われる側だったなら、これで言う側の気持ちが分かるというものだろう。大体、ああ言っていたが、面倒見られた覚えはない。 カバンを背負い直し、一つ息を吐く。 夕飯は、何だろうか。 弁当を、用意してもらうようになった。弁当箱があるからか、前に見かけたのと違って手を加えた中身だった。手間を増やしてしまったかと少し不安になったが、何故か少し楽しそうにしていたので、問題ないようだ。 台所に立つ姿。おかえりと迎える表情。ゆっくりと箸を動かす仕草。風呂上がりの一時。手の感触。 そうして、やっぱり先日の夜のことを思い出してしまう。 ほぼ抱きしめるような体勢。至近距離の温もり。擦り寄せられた頬。けれど、 空いている手が、背に回されることはなかった。強く掴んだ手が、握り返されることさえ。 ぎゅうと手を握りしめる。 仕方がないとわかっている。どうしてと思う方がおかしいのだとも。拒絶されなかったのだから、十分じゃないか。望む方がどうかしている。それでも、 触れるだけじゃ足りない。 椿からも、触れて欲しい。手をのばして欲しいだなんて、そんな、 そんな、バカなことを思う。 風が吹く。ゆっくりと、息を吐く。こんな思いが頭を占めたまま顔を合わせるわけにはいかない。家につくまでに頭を冷やさなくては。 温もりが、まだ残っている。 …………早く帰って描きたい。 <> [戻る] |