旅行前
帰宅して着替えてから、ソファに横たわった。
何となく疲れた。痛くもない、と言いきれない腹をつつかれたのだから当然かもしれない。今のところ、特に問題なく平穏に過ごせているのは事実だ。ただ、気がかりがないわけではない。
気のせいと思うには無理がある。けど、煩わしくて気味が悪いだけで、害はなさそうだからわざわざ話す必要はない。絡みつくような視線に比べれば、だいぶマシなのだから。
そっちだって、授業中さえ我慢してればいいのだから、昨年に比べれば楽だ。だから、本当に、問題なんてない。大丈夫。
ゆっくりと数えながら息を吐き出す。吐ききったら、今度は同じように数えながら息を吸う。呼吸に意識を向け、余計なことは何も考えないようにしてしばらく。玄関の開く気配がして、一瞬呼吸が止まる。
シキが、帰ってきた。
そうなると、意識はそちらに向かってしまう。けれど、起きようとは思うもののなかなかその気力がわかない。さっきまではなかった眠気が、急にやってきたようだ。
ガチャリと、リビングのドアが開く音がした。
このままなら気持ちよく眠れてしまいそうだ。けど、明日から少しの間、シキに会えなくなる。だからどうにか無理矢理体を起こした。深く、息を吐き出す。
「……寝てたのか?」
「……ううん。横になってただけ。おかえり」
「ただいま」
優しい笑みを向けられる。それだけで、起きてよかったと思えた。
ソファに腰を下ろしたシキを、背もたれに半身預けて眺める。チラリとこちらを見たシキが、ん?と訊ねてくる。何でもないと、首を振った。
うん。やっぱり大丈夫だ。こんな簡単に気分が浮上するのだから。
「……今日、天気良かったね」
「ああ。……連休中も晴れてるといいな」
「そうだね」
何でもいいからと選んだ話題だけれど、連休の話になってしまったから失敗だったかもしれない。
「明日は駅で待ち合わせだっけか?」
「うん。ホームで待ち合わせてる」
「支度は?」
「まだ。でもすぐ終わるから」
「そうか。忘れ物しないようにな」
「平気だよ」
「スケッチブックいるか?」
「それはいらないっ」
つい、強く答えてしまった。シキはクツクツと愉快げに笑う。
「旅先にスケッチブック持っていかねぇで、どうすんだよ」
「そりゃ……シキはそうだろうけど」
わかってる癖に。じとりと視線を向ける。シキを楽しませただけみたいだけれど。
「少しはゆっくりできる時間ありそうなのか?」
「……うん。そのために余裕をもっての二泊だし。ヤエが用事済ませてる間は、一人だから」
「そうか。なら、まぁ、良かったな」
「……シキは、」
「ん?」
口を開いてしまってから、訊こうか訊くまいか悩む。でも、やっぱり気になるし、そのまま言葉を続けた。
「……連休、どうするの?」
「あー…」
考えるように、シキの視線が動く。
「……天気良けりゃどっか描きに行くし、悪けりゃ籠もってんな」
「そっか」
籠もってるというのは、部屋に籠もって描いているという事だろう。つまり連休中、天気が良かろうが悪かろうがひたすら何か描いているのか。
「……帰ってきたら、見せてもらっても良い?」
「構わないが……代わりにお前もな」
「いや、だからそれは……」
勘弁してと告げると、シキは可笑しそうに笑いをかみ殺した。
「じゃなくて土産」
「えっ、あー……」
「土産話、楽しみにしてる」
「土産話?食べ物とか民芸品じゃなくて?」
「特になさそうだろ」
そうかもしれない。
けれど、だから土産話と言われても。特に何かしたり見たりしに行くわけでもないし。
「……話すほどのこともなさそうだけど」
「それでも、どんな所に行って、何を見て、どう感じたのか、聞きたい」
まっすぐに見つめられて。まっすぐに告げられて。何だか気恥ずかしくて視線を逸らしてしまいたい衝動に駆られた。
「……ん。わかった」
見つめ返したまま、どうにかそれだけを返す。シキが、嬉しそうに表情を緩めた。ひどく優しい眼差しで。
思わず口を開いて、でも何も言葉が出てこない。こみ上げた感情を伝えたいのに、それを形にすることができなくて。
「……そろそろ、夕飯の支度始める」
「そうか」
誤魔化すように宣言し、立ち上がった。
明日は早く起きなくてはならない。だから今晩は早く寝る必要がある。そうなると、夕飯も必然的に早くなる。
もう少しこのままでいたかったけれど、連休中あまり眠れないだろいことを思うと、今晩はしっかり睡眠をとっておきたいし。そう、自分に言い訳して台所に逃げた。
感情を言葉にできなくてもどかしくて。でもどうしても伝えたくて。何かやらかしてしまいそうで逃げ出した。手をのばすわけにはいかない。それなのに。
手をのばしたら、掴んでくれるんじゃないかって錯覚してしまいそうになる。振りほどかれることはないんじゃないかって、期待しそうになる。
馬鹿な考えを追い出すように、ゆっくりと頭を振る。
夕飯を作ろう。まずは手を洗って。手順を一つ一つ思い浮かべていく。余計なことを考えてしまわないように。
台所に逃げるときに目に入ったシキの表情が、名残惜しそうに見えたのはきっと気のせいだ。
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