考え事
まさか、こんなことでこんなに悩むことになるなんて。
ぼんやりと、教科書の数字を眺める。先生の声は耳を素通りしていく。
まだ時間はあるからと先延ばしにして、時間がなくなってしまった。何が好きなんだろう。考えれば考えるほど、何も浮かばなくなってくる。そんな、真剣に考え込むようなことじゃない。ぱっと思いついたもので良いとわかってるのに、何も出てこない。
だったら、いつもみたいに適当に答えてしまえば良いんだろうけど。
「……ょう君。一城君」
「……はい」
かけられた声に顔を上げる。先生が少し困ったような表情でこちらを見ていた。
「……黒板の問題、解いてくれる?」
見れば数人が前で問題を解いていた。一つだけ誰も取りかかっていないのがあるので、それに指名されていたのだろう。かたりと、立ち上がる。
……何が好きなんだろう。
残っていた短いチョークで、黒板に書かれた式を解いていく。
好きな、食べ物。
苦手なのなら、何となくわかる。でも、好きなのとなると。何か好んで食べていたものなどあっただろうか。特にない気がする。……なくはないか。好きなものというか、好きになったものはある。でも、あれは食事にならないし。
チョークを置き、自分の席に戻る。
そもそもこの場合、好きなものというより帰ってから食べたいものの方が正確なんじゃないだろうか。それなら……………ダメだ。やっぱ何も思い浮かばない。
数日後に食べたいものと考えるから難しいのだろうか。なら、今晩と仮定してみて……………今日の夕飯、まだ決まってないや。何にしよう。
珍しいなと、声をかけられたのは休み時間になってからだった。
「授業中、ぼんやりしてたろ」
「あー…うん。ちょっと、考え事しちゃってて」
「考え事?」
うん、と頷く。
「夕飯、どうしようかなって」
「主夫かっ」
「一介の高校生だよ」
不服そうなまなざしを向けられてしまった。事実なのに。
「戸市君は夕飯何食べたい?」
「ジンギスカン」
「……即答。てかジンギスカンなんだ」
あまりよくは聞かない名を出され、物珍しさを憶える。戸市君は、勢いよく両手を机についた。
「違うんだ」
「何が」
「昨日読んでたマンガに、ジンギスカンが出てきて」
あぁ、そういうことか。
「それからずっと口がジンギスカンを求めてるんだ。夕飯と言わず、今すぐ食いたい」
「……学食にはなさそうだよね」
「……なかった」
確認したのか。
ついに机に両手をついたまましゃがみ込んでしまった。額を机の端に押しつけるようにしているので、つむじがよく見える。
「……じゃあ、明明後日の夜だったら何食べたい?」
「……随分と飛んだな」
顔を上げた戸市君が不審そうな眼差しを向けてくる。それにまぁまぁと返す。
「明明後日つったら……連休最終日か。焼き肉とかか?」
「……焼き肉」
重たいな。
「そういう一城は、何がいいんだ?」
「それが思いつかなくて困ってる」
「そういやそうだったな。参考なったか?」
「……あんまり」
元々、参考にするつもりで訊いたわけでもないし。
「ジンギスカンは?」
「……それはまた別の機会に」
「そうか」
「そもそも、ジンギスカンにしたとしても、戸市君が食べられるわけじゃないし」
「だよなー。食ってみたいんだけどなー」
はぁーとため息一つ吐いて、戸市君が立ち上がった。
「そろそろ次の準備しないとな」
「そうだね」
席に戻る戸市君の背中は、哀愁に満ちていた。そんなにも食べたかったのか。食べたいものを訊かれて、即答できるのは羨ましいけれど。
食べたいもの。好きなもの。今日の夕飯。
どうしよう。
とりあえず、今日の夕飯はシキの好きなものにしようかな。少しの間だけど、顔を見れなくなるし、食事の支度とかもできなくなるから。うん。そうしよう。
後は、オレがシキに何をリクエストするかだけなんだけど。
机の上に出しっぱなしになっていた教科書やノートをしまい、次の授業で使うものを取り出す。
いつもなら、前までなら、自分の好きなものの代わりにシキの好きなものを答えていたことだろう。どうせ何もないからと、考えるまでもなく。
でも、オレの好きなものを作りたいと、そう言われてしまった。
オレの好きなもの、好みを知りたいと、そう。
そんなこと言われたら、適当になんて答えられない。好きなものを知って欲しいと、そう思ってしまう。その好きなものが、自分も知らないということに気づいていなかったが。
ここまで考えて何も思いつかないということは、好きなものなんてないのかもしれない。元々、食べるという行為そのものが好きじゃなかったわけだし。
好きなものなんてなかったと素直に伝えたら、どう思われるだろう。変に思われるだろうか。ただ、だとしてもせっかくの機会だし、何かリクエストはしときたい。
何がいいだろう。シキみたいに、材料ででもいいのだろうか。
本当に、まさかこんなことでこんなにまで悩むことになるなんて、思ってもみなかった。
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