変化 「あ、おかえり」 帰れば、普段通りに椿が迎える。まるで、何事もなかったかのように。事実、椿にとっては特別なことなど何一つない。 「ああ……ただいま」 「今から夕飯の準備するから。少し待ってて」 「今日は?」 「鱈。酒蒸しにしようかなって」 「……酒蒸しか」 「うん。他のが良い?」 「いや。汁物は?」 ソファに腰かけていた椿が立ち上がりかける。それに問いかけながら座れば、椿もつられるように再び腰を下ろした。 大丈夫。いつも通り会話できている。何も、変わりはしない。気づかれぬよう、そっと息を吐いた。それが安堵からなのか落胆からなのかはわからないが。 もう、いっそ忘れてしまった方が良いのだろう。何があったわけでもないのだから。 「卵と玉ねぎ」 「……卵」 「ん?」 「いや。さっき悟んとこいたんだが」 「あ、じゃあサエさんたちに会った?」 「ああ。今日、会ってたんだってな」 「うん。ヤエと会ってたら、たまたまサエさんと出会して」 会っていたのは、ヤエの方なのか。 「二人で買い物して、悟さんのとこ行くって言ってた」 「サエのやつ玉子割って、ヤエが嘆いてたぞ」 「あぁ…うん…サエさん」 ふっと、椿の眼差しが遠くなる。その表情に何だか見覚えがあり、面白くなく感じた。 「………台所壊すとまで言われてたな」 「いや、何か壊すかもはしれないけど……でもさすがに台所自体は……」 それはないんじゃないかと言いつつも、断定はできていない。しまいには両手で顔を覆う始末。深く項垂れる姿に、何か前科があるのかと眉を寄せた。 「……壊すのか」 「サエさん、力加減がちょっと……それでなくとも、凶器持たせるわけには」 「凶器て」 「包丁とか。サエさんが持つと凶器にしか見えない」 それは、どうなんだ。人として。 「でも、うん。大丈夫。サエさん、自覚してるから。むやみやたらに料理しようなんてしない」 「そうか」 「うん」 椿が深く息を吐き、ようやく顔を上げる。 「じゃあ、夕飯の準備してくる」 「………ああ」 もう少し、話をしていたい。というか隣で、のんびりとしていたい。先程までは顔を合わせずらいとか考えていたくせに、実際会えば、離れがたく感じるなんて。 「それとも、先にお風呂の用意しとく?」 「ん?」 「今日、一段と冷えたから、先の方が良いかなって」 「………」 立ち上がり、わずかに首をかしげる椿を見上げる。さらりと揺れる髪。問いかけるような微笑。 何となく。本当に、何となく。手をのばしてみた。触れた瞬間、僅かにピクリと反応する。それでも振りほどかれることはなく、ただ戸惑いの色が浮かべるだけ。 「手、つめてぇ」 「そ、う?」 「ああ」 お前の方が冷えてるんじゃないかと視線を向ければ、椿は戸惑ったように目を泳がせた。 冷たいといってもひんやりと冷えているわけではない。ただ、己の体温に比べれば、僅かに低いというだけだ。寒さのせい、ではなく元の体温だろう。 「そんなにかわらないと思うけど」 「そうか?」 緩く握ったまま、手の甲を親指でつぅ…となぞる。反射的にピクリと動く身体。けれど、拒絶の言葉はかけられない。離れては、いかない。 以前ならば、こんな風に触れはしなかっただろうに。毎晩触れる内に、気安く感じるようになったのだろうか。 「………シキ?」 「ん?」 「えっと…何か…?」 「………いや」 何かなんて、あるはずがない。ないからこそ、こうも燻っているというのに。戸惑いの視線を感じながら、緩く掴んだ手をぼんやりと眺める。 握り返されることは、ついぞなかったが。 離れがたいとはいえ、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。名残惜しくも手を離せば、椿は台所へと夕飯を作りに向かう。 一人リビングに残り、手を握りしめた。 夕飯を終え、風呂に入り、椿の手にハンドクリームを塗る。ソファに座り、隣で本を読む椿の絵をスケッチブックに描いていく。のんびりと時を過ごす内に、不意に椿が眠たげに目をしばたたかせた。 「………眠いのか?」 「………ん?……ん。少し」 「なら、もう寝ろよ」 「んー」 平素ならば、すぐ寝室に向かうというのに。まだ、起きていたそうな様子に首をかしげる。 「………シキは?」 「ん?」 「まだ、起きてる?」 「………いや、もう、寝る」 「じゃあ、オレもそうしようかな」 ふんわりと、椿が笑んだ。 どういう、つもりなのかは知らないが、まるで少しでも長く一緒にいたいとでも言うような。そんな答えの仕方に、一瞬、言葉がつまる。 「………っ、電気、消すぞ」 「ん」 本を置き、椿がゆっくりと立ち上がる。電気を消して、椿が先にベッドに入る。背中合わせはいつものこと。背中が熱く感じるのも、いつものこと。 ただ、朝に目を覚まし、寝返りをうち硬直した。いつもなら見えるのは椿の後頭部。けれどなぜか今朝は、気持ち良さそうな寝顔が間近にあった。 思考が停止し、思わず凝視する。 さらりと流れる前髪。閉じられた瞼を縁取る睫毛。鼻の筋に頬に、そして唇。手を少し動かせば触れられる距離に。 距離としてはいつもと変わらない。それが向きが違うというそれだけで。吐息が、触れてしまいそうで。 状況を理解した途端、どくりと心臓が跳ねる。 何だか、これはとてもヤバイ気がする。目の前で、間近で、同じベッドの中で椿が寝ている。今まで意識しないようにしていたけれど、この、不意打ちは。 少し手をのばせば触れられるのだ。その頬に、唇に。寝息が、触れてしまいそうなほどに近くて。 寝起きで、いつもと同じと油断していた。どうにか、意識をそらそうと、そう、努めようとしたのに。 だめ押しとばかりに椿の言葉が脳裏を過った。 ―――好きだなって…… あ。やべぇ。 「あれ?シキ、朝シャンしたの?」 「ああ……おはよ」 「おはよう。……何だか、珍しいね」 不思議そうに首をかしげる椿から、視線をそらす。罪悪感から、まともに顔を見れなかった。 <> [戻る] |