手 何やかんやと引き留められ、ようやく解放されたのは夜が大分更けてから。どうせなら朝帰れと言うのを振り切り、急ぎ帰途につく。明日は平日。通常通り講義があるというのに。 それに、遅くなるとは伝えたけれど、それでも。 ともすれば駆け足になりそうなのを抑え、ただ早くと足を動かす。寒い冬の夜だというのに、汗をかきそうだ。 帰っても、もう寝てる。そうとわかっていても。 電話をかける隙がなく、代わりに送ったメールには、わかったと簡潔な返答。帰ると言ってある。だから、家で寝ているはず。 いつかのように、いないなんてことはないはずだ。そう願い、足を動かす。 玄関に靴はあった。それにホッと息をつくも、きちんと姿を確認したい。電気もつけずにまっすぐ寝室に向かう。 布団を被り、すやすやと眠る姿に胸が暖かくなる。しかも、いつもとは逆、こちら側を向いていて。込み上げた感情のまま手をのばしかけ、止める。 何をやっているんだ。 早く、風呂入って寝よう。そう思うものの立ち去りがたく感じる。瞼を閉じ、一度ゆっくり息を吐く。後ろ髪を引かれながらも、寝室を後にした。 台所には、しっかりと夕飯が用意されていた。大根をとリクエストしたからか、メインはぶり大根。味噌汁にも、大根が使われている。 後は温めてよそえばいい状態。前にも、こんなことがあった。 その時とは違い、あるとわかっていた。だから不審に思われながらも、何も食べずにいた。 腹は減っている。夕飯にとリクエストした。けれど時間が時間。少しだけ食べて、残りは明日の朝に回そう。コンロの火をつける。 優しい味付けに、胸が暖かくなる。 そうして、寝支度を整えさて布団に入ろうとしたところで、硬直した。捲って気づいたことだが、椿は片手をわずかに伸ばして眠っていた。 まるでそこにはいない誰かに抱きつくように。たまたま、そう見える体勢なだけ。それはわかっている。この場合問題なのはその位置。手をどかさないと、寝られない。 悩む必要などない。ただ手を掴んでどかせばいい。たった、それだけのこと。それだけのことなんだが。 すやすやと眠る椿を眺める。規則正しい呼吸。頬にかかる髪。 悩む必要などないとわかっているのに、動けない。何を気にしてるというのか。おかしいことなど一つもない、当たり前な行動。それなのに。 本当にいいのだろうかと、自問自答してしまう。 静かに時が流れる。 いつまでも、こうしているわけにはいかない。一度視線をそらしてからすぐに戻す。大丈夫だと自分に言い聞かせ、手をのばす。 触れた手の感触に、息を詰める。そっと持ち上げ、後は動かし置くだけ。けれど離しがたくて。やっぱり、荒れてるなと感じた。何となく、手の甲を親指で撫でる。 椿は起きない。 すやすやと気持ち良さそうに眠っている。強く握りしめてしまいそうになるのを、どうにか力を抜いてやりすごす。 早く、手を置いて。そして寝なくては。わかっている。けれど。 規則正しい寝息。閉じられた瞼。頬にかかる髪。触れた、手の感触。静かに流れる時。 どれぐらいそうしていたのか。椿がわずかに動いたことで、我に返った。緩く頭を振り、気持ちを切り替える。そうしてようやく手を置いた。 ベッドの中に入り込み、けれど椿の方を向くことができず、背を向ける。それでも、椿がこちらを向いて寝ている。それだけで異様に背中が熱く、なかなか寝付けない。 そっと己の手を握りしめ、そして瞼を閉じた。 熟睡はできなかった。仮眠をとれた程度。いつまでもベッドの中にいても仕方ないと、早朝に起き上がる。 振り返った先では、椿が変わらず眠っている。ぼんやりその姿を眺める。手を、握りしめた。昨夜の感触を思い出すように。 しばらくそうしてから、小さく息を吐き、立ち上がった。 昨夜の残りを朝食として食べ、何となく手持ちぶさたになったので片付けまで済ませた。それでもまだ落ち着かなくて、早々に家を出ることにする。 ただ、ふと思い立ち、もう一目だけと寝室に向かった。眠る椿の姿など、珍しくもなんともないのだが。それでも。 「………椿」 返事がないのはわかっている。 「行ってくる」 わずかに、微笑んだ気がした。 「順調?」 「………ああ」 昼食をとってるとかけられた声に、一瞬だけ視線を向け返答する。用は済んだのだからとっとと立ち去ればいいのに、あろうことか隣に座り込みパンの袋を破きだした。 ここで食う気か? 顔をしかめるが、気にせずに食べ始めてしまった。邪魔だが、まだ食べ終わっておらず、移動することができない。諦めて食事を続けることにする。 渡されたチケットの結末については、何も訊かれていないし話してもいない。ただ、知ってはいるのだろう。色々と噂になっていたようだ。 昼食が済む頃には、こいつを避けて移動するのが億劫になり、癪だというのもあるが、そのままスケッチブックを開くことにした。適当に目に入った物や風景を描きとっていく。 次は空き時間なので、ここでのんびりしている心づもりだ。こいつがこのままここに居座らなければ。 鉛筆を握る手。 その手がふと視界に入り、動きを止める。昨夜のことが脳裏に浮かぶ。感触が、蘇る。 白魚の様とはとても形容できない、荒れた手。その手が作った物を毎日食べ、畳んだ服を着て、片付けた部屋で寝起きしている。 手を、握りしめる。 今ごろ何をしているのか。バイトか、家にいるのか。それとも、 ため息がこぼれ、それから隣にいる存在を思い出した。視線を向ければ、こちらを何とも言えない表情で見ている。 「…………んだよ」 「別にー」 ふいとそむける様に、顔をしかめる。気にしても仕方ないと視線をスケッチブックに戻した。それでも、どうにも手が気になって。 もう一度、握りしめようとしたところでバイブ音が響いた。 「…………もしもしー?んー何ー?」 電話か。聞こえる声を横目に、鉛筆を走らせる。 「大丈夫。ちゃんと覚えてるよ……そしたら迎えに来てよ……えー?……うん。わかった。じゃあね」 会話が終了し、よいしょと立ち上がった。ようやく去るのかと、肩の力を抜く。 「じゃあ」 「ああ」 視線を向けもせずに答える。だが、なかなか去る気配がなく、不審に思い顔を上げる。先程と同じ、何とも言えない表情でこちらを見ていた。 目が合うと、ため息を吐いて去っていく。一体なんだったんだ。わけがわからない。 スケッチブックに視線を戻す。けれど気分が乗らない。知らず、ため息を溢していた。 <> [戻る] |