羨ましいよ
「あ、シキ」
「あ?」
悟のマンションを出てしばらく。自宅のマンション前で、聞き馴染んだ声で名を呼ばれた。振り返ればやはり椿で。気持ち駆け足で寄ってくる姿に、頬が緩みそうになる。
「今帰り?」
「ああ。お前もか?」
「うん」
「………………シキさん、お久しぶりです」
嬉しそうに見上げてくる椿に笑いかけてると、さらに別の声が聞こえた。見れば、椿の後方から光太が何とも言えない表情で歩いてきている。
何だ。いたのか。
光太と、会っていたのか。
「ああ。………一緒だったんだな」
「…うん」
少しだけ、困ったように首をかしげる椿。曖昧な返答に眉を寄せる内に、光太がすぐ側まで来ていた。
「シキさん…あの……」
「ん?」
「えっと……」
声を、かけてはきたもののいいあぐねいている様子で。一体何なのだと眉間に力を込めれば、やっぱりいいですと諦めた。
何が言いたかったんだと嘆息するが、こいつの口から椿以外の話を聞いたことがない。きちんと話をしたのは一度だけだが、それだけで十分と思えるほどに椿を気にかけているとわかった。
だからまた、椿の事で言いたいことがあったのだろう。
それとなく椿の様子を見れば、光太の態度に苦笑している。恐らくは、どんなことを言おうとしたのか見当がついているのだろう。口をつぐんだ理由も。
会って、何を話していたのだろうか。
それに関する事柄なのか。
告げようと、迷うということは関係があることなのか。
浮かんで消えたもの、をあえて無視する。無理に聞き出すことはない。椿が必要と判断すれば、椿の言葉で聞くことができるはず。どうせ光太の事だから、また些細なことを気にしているのだろう。過保護にも。
気にはなる。けれど訊きはしない。代わりにと、光太の頭に手を置いた。
「その内ハゲるぞ」
「んなっ」
「…………確かに。光太、心配性だし」
聞こえた椿の同意に、気をよくする。不服そうに睨み上げてくる光太に、軽く笑う。そして、気にするなとばかりに二度頭を叩いて手を離す。
何を気にしているのかは知らない。けれどそれが関係のあることならば、心配など何一つない。ここにいてほしいと望んでいる限り、害を与えることなどあり得ないのだから。
それが、残りわずかな期間ともなれば尚更だ。
通じたかはわからない。未だ、釈然としてない様子を見せながらも、ため息をつき気持ちを切り替えたようだ。
「……じゃあ、友也。オレはここで」
「ん。ありがとう」
椿の礼に、光太はなぜか複雑そうな表情になった。椿がそれに苦笑して見せ、光太がまたため息を吐く。
じゃあと、挨拶をし立ち去る光太を何となしに見送る。角を曲がるのを見届け、椿に視線を戻した。
わずかに困ったような、申し訳なさそうな表情。何を、話していたのか。それはほぼ関係のないことなのだろうが。
描きたい。
唐突にそう思った。
「椿」
「ん?」
「帰ったら浴衣な」
こちらを見上げ、わずかに首を傾ける椿。黒髪が、さらりと揺れる。
「いいけど……夕飯は?」
「先に済ます」
「じゃあ、早く用意するね」
「ああ」
欲を言えば今すぐにでもか描き始めたい。描きたいと感じた衝動のままに筆を動かしたい。絵さえ描ければ、寝食などなくてもいい。
けれど椿は違う。
そこまで付き合わせるわけにはいかない。ならばさっさと飯を済まし、時間をとろう。睡眠は、寝姿でも構わないので問題はない。
白い浴衣。黒い髪。白い肌。墨の菊。グロテスクな蟲。暗闇に浮かび上がるように。溶け込むように。今度はどんな空気で魅せてくれるのだろうか。
髪の一筋、肌のキメ。溢れる吐息の震えまで。余すことなく描ききれれば。その空気を、質感を。………指先が、チリリと熱を帯びる。
歩みを止めて、エレベーターのボタンを押す。深い意味はなく、熱を感じた方ではない左手で。
先程触れた光太の頭の位置は、ほぼ同じくらい。けれどその触り心地はまるで違う。さらりとした感触が甦り、その持ち主に視線を向けた。
後ろ手に組み、隣にいる椿。僅かに俯いているせいで、表情は見えない。今日は、光太と会っていた。他人の姿を見つけて駆け寄ってきたくせに、椿もまた光太を気にかけていて。互いに気にしあっていて。
今も、こちらを見やしない。
音をたてて開く、エレベーターのドア。連れだって乗り込み、階数のボタンを押す。何となしに、椿を眺める。
スケッチブックがあれば。いやさすがに、ここでは無理か。
「………何?」
隠す気なく見つめていたからか、視線に気づいた椿が気まずそうに訊ねてきた。チラリと向けられた眼差しに、僅かに気が晴れる。
何でもないと答えようとして、別の言葉が口をついて出た。
「仲、いいよな」
椿の髪が揺れかけた瞬間、到着し、ドアが開く。先に椿を下ろさせる。エレベーターからおりると、僅かに首をかしげた椿が口を開いた。
「仲って………光太と?」
「ああ」
前にも、同じようなことを言った覚えがある。あれは確か、赤い夕陽の帰り道。
「………うん。仲、いいよ」
聞こえたのは以前と同じ肯定の言葉。けれど誇らしさは消え失せ、どこか寂しげで。
何かに耐えるような表情はすぐに反らされる。深く訊くべきか訊かざるべきが。答えの出ている問いを考えながら、先を行く椿について行く。
部屋につき、椿が鍵穴に鍵を差し込む。揺れる根付け。
「………たまに」
「ん?」
「………羨ましいって、思う時があるけど」
ポツリと溢された言葉は、ひどく小さく下手をすれば聞き逃しそうだった。チラリと向けられた視線は、迷いのあるもの。
椿が口を開き、すぐに閉じる。唇を湿らせてから、もう一度口を開いた。
「………シキだって、そういうことあるでしょ?」
抱き締める姿。掴んだ腕。触れる髪。当たり前のように、触れることのできる関係。
「………ああ。そうだな」
その位置を、望むわけではないけれど。
考える前に出た返答に、椿は自嘲に似た笑みを見せた。
ガチャリと、鍵が回される。
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