彼女の想い1
彼と出会ったのは大学に入学してから。隣の席に座り、名前がきっかけでよく話すように。テキストを見せてもらったり、一緒に勉強するうちに親しくなった。
彼にはいつも世話になってしまっている。思い起こせば最初の頃からしてそうだった。
「辻本君!ノート見せてー」
「…………また?」
「またってひどいなー。いつもみたいじゃん」
「いつもだよね?」
「時々だよ。時々」
出し渋る彼の手からノートを受け取り、広げる。呆れたようなため息が聞こえた。
うっ、視線が痛い。
「や、ちゃんと起きてようとは思ってるんだよ」
「夜更かしでもしてるの?」
「ちゃんと寝てるんだけどねー。あの先生の声きいてるとどうしてもダメで」
「…………」
あ、呆れられた。
「……ノートはともかく、レポートはちゃんとやってる?来週提出だけど」
「え?レポート?」
聞き覚えのない単語に首をかしげると、彼は固まった。
「え……えーと、何の事かな?」
「…………恵さん?」
「……はい。何でしょう」
にっこりと笑みを浮かべる彼。何だかとても怖い。
「先々週ちゃんと授業出てたよね?寝てるから大事なこと聞き逃すんだよ?この授業レポートと筆記で成績つくから、提出しなかったら落とすよ?」
「は……初耳です」
「今日も授業中言ってたよ」
返す言葉がございません。
「ち……ちなみにレポートってどれくらい?」
彼は無言でカバンから手帳を取り出すと、開いたページを見せてくれた。
「……こ、これを一週間で?」
救いを求めて彼を見ると、あっさりと先を越された。
「手伝わないよ?」
「…………うぅ」
もうおしまいだ。
絶望と共に机の上につっぷす。もうダメだ。落とした。
広げていたノートの閉じられる気配がした。
「ほら、そんなとこで寝てないで図書館行くよ」
「え?」
顔をあげると、カバンを手にした彼がすでに立っていた。
「時間ないんだから、早く」
「で……でも」
たった今、手伝わないと言ったばかりなのにどうして。そんな疑問がしっかり顔に出ていたのだろう。
「手伝わないけど、見張っとかないとやらないでしょ?」
「え?え?辻本君、私がサボんないように見張る気?」
「もちろん」
「優しいんだか優しくないのかわかんないよ、それじゃ〜」
半泣きになりながらも慌てて彼のあとについていく。確かに自分一人じゃ何一つ進まないことが断言できる。悲しいことに。
手伝わないとは言われたけれど、付き合ってはくれた。行き詰まったり煮詰まったりした時には助言をくれたり一緒に資料を探したりしてくれした。聞けばだけれど。
集中力が切れたり、飽きたりしてきた時には叱咤激励してくれたり、気晴らしの話し相手にもなってくれた。この日だけでなく、空き時間の合う度に図書館に連れていかれて。その間、彼はずっと自分の勉強をしたり本を読んだりしていた。
おかげでレポートは無事提出できました。ありがとうございます。
「何かお礼しなきゃだね」
「え?別にいいよ」
「よしっ!特別に下の名前で呼ぶことを許してしんぜよう」
「ははっ、何それ」
楽しそうに笑う彼に、首をかしげる。
「だって、私の名前呼びずらいんでしょ?」
「…………」
彼の動きが止まった。
「いくら同じ字だからって読みは違うのにサー」
「んーと…」
彼は困ったように首をかしげる。否定はしなかった。
「私も恵って呼ぶからさ。そしたらあいこ、ね」
「じゃあ、華江」
「……っ」
じ、自分で言い出したこととはいえ、急に下の名前で、それもまっすぐに見つめられた状態で呼ばれると不覚にもドキッとしてしまう。
わたわたしてる私に構わず、彼はズバッと言った。
「明日提出の宿題、ちゃんと終わってる?」
一気に血の気が引いた。
「な…何でそんなこと言うのーっ!?」
この流れで!
「終わってる?」
しかも重ねて尋ねてきやがった。
「終わってないさ!今、やろうと思ってたとこだもん!!」
子供じみた言い訳をしながら、テキストを取り出し机に叩きつける。
「まぁ、それはすぐ終わると思うけど…」
「これぐらいヨユーだよ!」
涙目になりながら宿題と格闘してると、彼の携帯が鳴った。
「もしもし?ん?何?」
携帯の向こうの誰かと話す彼の横顔は、とても穏やかな表情だった。何となく、誰と話しているのか気になった。
不意にこちらを向き目が合う。慌てて視線をそらした。
……何やってんだ、自分。
「うん。大丈夫。……分かった。じゃあ」
携帯を仕舞った彼が、こちらを向く。
「じゃあ、もう行くけど…」
「で……デート?」
恐る恐る訊くと彼はあっさり否定した。
「彼女いないのに?サークルの呼び出しだよ」
「サークル?」
「幽霊部員だけどね」
苦笑する彼に安堵した。
ん?安堵?
「じゃあ、宿題頑張って」
「――っ!?だからなんで!?」
そーゆー事を言うのか!さっきだって、せっかくいい雰囲気になりそうだったのに!
楽しそうに笑う彼を追い払い、テキストに向かう。けれど全然集中できなかった。
どうして雰囲気なんか求めたのだろう。それに、彼女がいないと聞いて安心するなんて。何かモヤモヤする。目の前に何かあるのに触れられないような、あやふやな感覚。一体なんなんだろう。
彼の声が、表情が焼き付いて離れない。
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