…………6
足が重い。胃が痛い。約束なんかすっぽかして今すぐ回れ右して帰ってしまいたい。二人に、会いたくない。
改まって大事な話があると呼び出された。電話ではなく直接会って伝えたいと。その声に何となく予測がついてしまった。多分、聞きたくはない報告。
逃げだすわけにはいかなかった。聞かなくたって事実は変わらないのだし、いつまでも逃げ続けることはできない。縁を切らない限りは。
……そんなこと、できるわけない。
友達として、親友として彼の傍にいると決めたのは自分。何があったとしても離れることなどできはしない。
それなら、嫌なことは早々に済ましてしまおう。重い足を引きずって待ち合わせ場所へと向かう。喫茶店のドアを開いてすぐ、気持ちが挫けそうになった。並んで座る二人。纏う空気。聞かなくたって、話の内容はわかる。気づきたくなんてないのに。
「お待たせ」
「悪いな。わざわざ」
いつもならそんな事言わないのに。泣き出したくなった。
頼んだアイスコーヒーが届いた後、さてと彼はいずまいを正した。隣に座る彼女にも緊張が走る。
「実は恵に聞いて欲しい話があるんだ」
「うん」
声が掠れた気がする。ちゃんと受け答えできるだろうか。今からでも、逃げ出してしまいたい。話を反らしたい。
「オレ逹…」
彼が一瞬、隣の彼女を見やる。とても優しい眼差し。息が止まるかと思った。
「結婚することにしたんだ」
「…………」
二人の視線に耐えきれず、顔を附せる。コップの中の氷がカランと音をたてた。周りの音が遠くなる。呼吸が、止まる。早く、何か言わなくちゃ。変に思われる。なのに焦るほどに頭が真っ白になる。喉が乾く。
コーヒーを一口、飲む。
感情を、飲み込む。
「おめでとう」
顔をあげ、笑みを見せる。
声は震えてないだろうか。顔は強張っていないだろうか。不審に、思われはしなかっただろうか。想いを誤魔化すように言葉を重ねる。そうでもしないと、何を言ってしまうか分からなかった。
「式の日取りはもう決まったの?」
「……いや。まだ全然」
「てか、実はまだ親にも話してないの」
「……え?」
おずおずとした彼女の言葉に声を失った。
「えーと…決まったって、親の了承得たんじゃ…」
「まだなの」
「まずは恵に一番に聞いてほしかったんだ。な」
「うん」
まっすぐな二人の言葉。曇りのない信頼。親よりも誰よりも先に話してくれた。それは嬉しい。嬉しいけれども、胸が痛かった。胸が痛くて、家に戻るなり倒れ込んだ。全ての気力を使いきって指先一つ動かせない。
彼の傍にいると決めた日から、いつかこういう日が来るとわかっていたのに。実際に来てみるとこうも堪えるとは。
彼の表情。声、言葉、仕草。癖、笑い方や触れたときのぬくもり、匂い。
思い出がまざまざと瞼の裏に浮かんでくる。ずっと彼の傍にいるつもりだった。誰よりも近くで隣にいたかった。それなのに、今その場所には別の人がいる。
分かってはいる。居場所がなくなったわけではないのだと。彼女がいるのは反対側の隣。自分はまだ彼の近くにいるのだと。それでも胸が苦しくて仕方がない。
彼の隣にいるのは自分だけでありたかった。他の誰にも邪魔なんてされたくなかった。
恋人になりたいと望んでいるわけではない。一番近くにいたかっただけ。彼は好きだと、愛してると言ってくれるがそれは望んでいるものではない。
どうして気づいてしまったのだろう。あの放課後の教室で。気づくことなくいられたのなら、心痛めることなくただ幸せな毎日を過ごせていたのに。心の底から一緒に喜んで、素直におめでとうと笑いかけられたのに。
いつか彼に好きな人ができ、恋人ができて結婚して、そして子供が生まれて、その相手は自分でなくてよかった。ただ、傍で彼の幸せを感じていることができたのなら、それ以上は望まないつもりだったのに。
それで良いと思っていたはずなのに。
自分で選んだ道なのだ。
けれど、辛いと思う気持ちを止められない。
泣けば、楽になれるのだろうか。
泣いて、喚いて、叫んで、心の底から大声を出して、ずっと隠してきた感情を吐き出せば楽になれるのだろうか。楽に、なれたらいいのに。声を出して泣くには年をとりすぎた。人目も憚らず大声を出すなんてもうできない。今まで押さえ続けてきたせいで自分の気持ちに素直になることもできない。
何より、その気力すらもうないのだ。
このまま深い深い眠りについて、そのまま目覚めずにいられるのならば……
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