真皇帝物語 5 文書をしたためるのは苦手なんだがと独りごちて踵を返した男の頬を、微風が撫でた。同時に、歩き出そうとしていた足が止まる。 窓のない地下牢で、微風。 その時、微かな声が耳に届いた。 「……な……が…」 人影だ。ようやく言葉を取り戻したらしい。 「なんだ、まだなんかあるのか?」 男が尋ねてもそれに対する答えは返らず、震えるような声が響く。 「…裏…切り…など……そんな…はずが…」 「何を言ってる。お前がやったことだろう」 男が告げた時、再び風が吹いた。先ほどより強さを増しているそれに目をすがめる。 微風ならば何かのきっかけで起こりうるかもしれないが、この強さの風は有り得ない。どうも人影のいる独房から吹き付けているようだが、もちろんそこに窓はおろか、換気用の通風孔すらない。 風の影響か、鉄格子もびりびりと震えている。いったいどうなっているのか。 「おい、お前何をやってるんだ? この風は…」 「違うっ!」 悲痛な叫びと同時に、独房内から突風が吹き付けた。衝撃波と形容してもいいようなその激しさに地下牢全体が軋み、入口付近の燭台から炎が消え失せる。独房の前にいた男の身体は突風をまともに喰らい、重い鎧を着ているというのに吹き飛んだ。 「がはっ……!」 反対側の鉄格子に背中から強く打ちつけられ、息が詰まりながらも男はなんとか立ち上がった。 明かりを失って完全な暗闇と化した地下牢では、夜目が利くまで視覚がほとんど役に立たない。その代わりに刃が風を斬るような鋭い音があちこちから聞こえ、吹き荒れる横殴りの風が頬を打つ。 「なん…だ…何がどうなって…!」 突然の事態に頭が混乱しそうだ。しかし、このままだととり返しのつかないことになると直感が告げていた。 「敵国の手先になどっ……俺は…俺はっ…!」 完全に取り乱した様子の声が、風切りの音の奥から届く。その一人称から、人影は少年だったことが分かる。 更に、その時になってようやく男はあることに気づいた。地下牢で吹くはずのない突風。少年が感情を爆発させる度に起こる空気の振動。 「あいつ…まさか…っ」 ──―刹那。 男の身体が、突如生じた真空の刃によって強靭な鎧ごと切り裂かれた。 胸部から腹部にかけての殺傷は非常に深く、即死だったとしてもおかしくないくらいだ。 あまりの傷の深さに叫ぶことも呻くことも出来ず、男はその場にくずおれる。 「うあああああっ!」 少年の絶叫が轟き、建物が鳴動する。朦朧としてきた思考でそれを捉えると、男は静かに意識を断った。 それを皮切りに暴風が激しさを増し、真空の刃が牢内を無差別に切り裂く。闇に包まれたそこは、もはや混沌の空間と化していた。 ───やがて、荒れ狂っていた風が不意に止んだ。 建物は微かに振動したままで、今にも崩れそうだ。 この空間の中にいたにも関わらず無傷で立ち尽くしていた少年は、荒い息を繰り返して天井を見やる。 パラパラと石片が落ちてくるのを認めて奥歯を噛み締めると、裂かれた鉄格子の隙間から独房を抜け出し、そのまま地下牢の外へと姿を消した。 この日、セファンザ帝国で最も堅牢強固と謳われるゴルデ城塞が崩落した。 オルテール暦759年、初夏のことだった。 [*前へ] [戻る] |