Barcarola de Tramonto
2
空は澄み渡る蒼から焼け付くような朱、そして目映い光を黄昏へと屠るようにして紫へとその表情を刻一刻と変えながら世界を遷ろう。
夕闇に沈み逝く世界を、仄かに煙草の臭いを燻らせた男が行く。
長いコートの端が男の動きに併せて揺れ、カツンカツンと鋲が石畳を叩く乾いた音だけが辺りに響いた。
思えば、自分の意志で何かをするというのは随分と久しい気がする。影など追ってみたところでどうこうなる訳でもあるまい。
だが、何故だか今はその影を追わなければいけないような気がしたのだ。それは根拠の欠片もない全くの直感。…我ながら理解しがたい。普段の自分ならば考えられないような行動。自分の唐突で不可解な行動に思わず苦笑が漏れたが、たまには…
「こういうのも悪くはない…」
黒く長い睫の縁取る美しい瞳が優しげに細められる。薄い口唇の端から不意に零れた言葉は誰に受け取られる事もなく、ふわりと宙を舞い南風に乗って消えた。
どれくらいの時間走っていたのだろうか。実際に走っていたのはおそらくほんの数分、だが男には随分と長い間思考を、体を走らせていたように思えた。
追っていたはずの人影は見えず、乱れた呼吸を軽く整え闇色に沈む辺りを見回す。見慣れぬ景色、随分と小道に入ってきてしまったようだ。
夕陽によって落とされていた長い長い男の影も、いつしか漆黒の闇へと融け、ぽつりぽつりとガス灯に小さな明かりが灯る。
夜を駆る獣の咆哮がどこか遠くで聞こえた。冷たく昏い夜の世界に、月と星がその輝きを繋ぎ、柔らかな光と海から吹く穏やかな風に包まれ、街が静かなる眠りにつく。
ネオンが煌々ときらめき、眠らぬ街に慣れた男にはこの情景が酷く新鮮に思えた。人々の欲望と思惑が複雑に絡み合う夜の街。誰も彼もが微笑の仮面の下に欲望を隠し、平気で他人を騙し謀り陥れる。
そこにいる人間達を否定したいわけではない。唯、そんな世界が俺には少し煩わしく思えたというだけの事。静寂を知らぬ眠らぬ街は、人々の幻想と現実を幾度も孕みながら、カタカタと音を立てて廻り続ける。…例え自分が居なくとも。
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