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硝子に罅が入る時刻。
※暴力流血表現があります※


 赤ん坊がハイハイするのと同じくらいの速度で歩く足音さん(暫定的渾名)は、俺の目的地と同じ五階――二年は五階、一年は四階だ――の廊下を進んで行く。

 下の階からこっそり尾行している俺に気付いた様子はない、というか、周りを気にするような余裕はないんだろう。

 気配だけで十分伝わってくる。

 壁に張り付くようにしてそっと覗くと、足音さんの姿を目で確認することが出来た。

 二十四時を過ぎれば寮内の廊下は照明の彩度が落とされ、真っ白に見えていた壁紙が落ち着いた青に染まる。

 防犯上の理由で明度はそれほど落とされない為、足音さんの髪の色はよくわからないが、さらっさらの綺麗なストレートであることはわかった。





神様は悪戯に夜を照らし 16





 百六十前後の身長と、さらっさらのストレートヘア。

 この二つの特徴で思い浮かぶのは最近接触してしまった王族の綾部と女王様だが、顔の系統は違うんだろうな、という感じがした。

 後姿しか見えないからなんとなく、だけれども。

 あの二人みたいな美人系じゃなくて、高杉と同じ可愛い系な気がする。

 まあどちらにせよ、かなり整った顔立ちをしているのは確かだろう。

 俺がイラッとして蹴飛ばした奴らに襲われていた生徒は、押し並べて容姿端麗だった。

 勿論、王族に選ばれるようなレベルにお目にかかることはなかったが、公立校だったら女子が放っておかなそうな高水準。

 明らかに呼び出された感じの足音さんが、俺のように庶民臭漂う平凡な生徒であるはずがない。

「――――……」

 足音さんは自分をじっと見つめる不躾な視線に気付くこともなく、ある部屋の前でぎこちなく足を止めた。

 震える手を胸に押し付け、目をぎゅっと瞑り、深呼吸を繰り返す。

 そして覚悟を決めたように顔を上げ、細い指先でドアをトントントン、と叩いた。

( …やっぱり呼び出されたのか )

 予想が確信に変わる。

 インターホンでも手の甲を使ったノックでもなく、文字通り指先での訪問。

 廊下に響かないだけでなく部屋の主にも聞こえないようなその合図は、この時間に呼び出されていたことの証明に他ならない。

 相手がすぐ近くで待ち構えていなければ成り立たないのだから。

「よォ、待ってたぜ」

 叩いたとは言えない微かなノックのすぐ後、酷く静かにドアが開き、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべた男が顔を出した。

 と思ったら、足音さんに怯む間も与えず、乱暴に腕を掴んで無理矢理部屋の中へ引きずり込んだ。

 廊下には悲鳴も残らない。

 ガチャリと鍵のかかる無情な音が聞こえ、隠れる必要のなくなった俺はその部屋を一直線に目指しながら、深い深い溜め息を吐き出した。

 はあぁ、ではなく。はああー、でもなく。

 魂がうっかり口から顔を出すような、はあぁぁあぁあぁあああぁ、という、深く長く重い溜め息である。

 溜め息をつくと幸せが逃げてっちゃうんだよ!、と言われたのは一度や二度じゃないからよく覚えてるが、誰だって俺と同じ状況に置かれれば溜め息の一つや二つ、絶対に吐きたくなるだろう。

 本当、初めてそう言われた幼い頃のように「じゃあ逆に深く息を吸えば、逃げてった幸せが戻ってくるの?」と問いたい。

 いや今はこんな可愛い口調じゃないし、誰に訊くんだよ、って話だけど。

 ――幸せは逃げていくものではなく奪われるものだと言ったら、顰蹙を買うだろうか。

「厄年じゃね? 二十五じゃないのに」

 さっき吐き出した溜め息は、足音さんを助けることを厭わしく思ったからじゃない。

 本来犯罪であるはずの強姦や強姦未遂が、日常茶飯事のようになっている現状に嫌気が差したからだ。

 異性間のそれより軽い刑罰になることが多いとは言え、魂の殺人と呼ばれる行為に性別なんて関係ないだろう。

 本当に理性のある人間なのか、ただの動物なんじゃないのかと疑いたくなる。

 全てが未成年だから、で許されるはずがない。

 そして何故、俺はそういう場に居合わせてしまうのか……運が悪いにも程がある。

 勿論、悲劇を防げるならそれに越したことはないって、わかってますけどね。

「カードキーじゃなきゃピッキング出来るのになあ…」

 しれっと犯罪臭い台詞をはきつつ、覗き穴の視界に入らない場所に立ってインターホンを押す。

 ピンポーン、って音は何だか間抜けでこの場に不釣合いだが、どこも同じようなものだから文句は言えない。

 むしろ不穏な空気を作り出している部屋の住人たちに文句を言いたい。

 月曜の未明になにしてくれてんだこの野郎。

 舌打ちをしたい気分になりながら左手に持つのは、階段を上る前に清掃会社のおばさま方が使う用具入れから拝借したモップだ。

 一度限りで捨ててしまうのか先端部分の雑巾はなく、もはやモップとは呼べないただの棒だが、バランスがとれるから片手でも扱いやすい。

 ピンポーン。二回目。

 覗き穴から覗いても訪問者の姿が見えないからか、それとも今の状況を第三者に見られるわけにはいかないからか。

 予想通りだけど、ドアは開かない。

 ピンポーン。三回目。

 急がずに同じ間隔でボタンを押す。

 それが五回目になると、馬鹿な住人は不機嫌そうにドアを開けた。

「ンだよ、どっか壊れ――っ?!!」

 覗き穴からは見えないけれど、ドアを開ければ当然俺の姿が見える。

 誰もいないと思っていた場所に誰かがいて、しかもそれが自分の目の前だったなら、さぞかしびっくりするだろう。

 まあ、俺の顔立ちを認識する暇なんて与えてやりませんけどね。

 即席の杜撰な作戦だったにも関わらず見事にひっかかってくれた男には、鳩尾にモップの先を埋め込むことで感謝の意を表した。

 背中に落とした肘鉄はおまけだと思ってくれて構いません。

( ひい、ふう、みい、よ、いつ、むぅ…? )

 玄関に乱雑に置かれた革靴の数を数えた俺は、呆れて思わず語尾を上げてしまった。

 六人、だと? いや一人は足音さんだから五人だ。って六人も五人も大して変わんねえよ。とセルフ突っ込みを入れる。

 強姦しようとしてる時点で十分頭が腐ってるのに、一人の人間に対して五人って…。

 獣かよ。本当にただの動物だな。

 同じ人間だなんて思いたくもない。

 革靴のまま上がってやろうかどうしようかと考える間もなく、ドサッという何かが倒れた音に気付いたらしい一人の男が奥から顔を出した。

「おい、何やって…っ?、ッ!!?」

 モップの棒片手に勝手に上がりこんでいる俺を見て目を見開き、その足元に転がっているのが仲間だとわかって更に目を大きくする。

 いやいや、そんな体育会系のゴツイ顔で驚かれても、全然可愛くないですから。

 今更人間ぶっても遅いですから。

 あ、そういやまだ眼鏡外してなかったな。危ない危ない、外しとかないと。

 どうりで見たくもない顔がよく見えてしまうわけだ。
 
 流石にカチューシャはないが、素人相手にはなくても困らないから構わない。

 俺は意識して口角をニッと引き上げた。


「掃除屋でーす!」





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