硝子に罅が入る時刻。
「船渡川さん、終わりました」
「ありがと〜、助かったよ〜。最後まで律儀にやってくれるなんて、高田くんはほんとにいい子だね〜」
いやいや、途中で投げ出す度胸がなかっただけですよ。
俺、チキンの卑族ですから。
「お礼は何がいい? もう夕飯時だし、デリバリーしよっか? 下の食堂より沢山メニューあるんだよ〜」
いやいやいや、そんなことしたら俺の存在が確実にバレるじゃねえか。
保管室に書類を持って行けって言ったのは綾部だからここに来たこと自体を隠すつもりはないが、ここに留まった事実は隠す気満々ですよ?
っていうか、それがお互いの為ですって。
USBメモリを取り外してパソコンを閉じようとしている船渡川さんに覚られないように、足音を消してドアの前まで移動する。
さよなら保管室。さよなら王族フロア!
「ルームメイトとの約束がありますので、お気持ちだけ頂いておきます。失礼致します」
ペコリと頭を下げた俺は、きょとんとした船渡川さんの視線を感じながら素早く廊下に身を滑らせた。
神様は悪戯に夜を照らし 08
殆どの生徒が部屋の外にいる時間帯に王族フロアからエレベーターを使って降りるのは自殺行為に等しいだろうから、階段を静かに駆け下りる。
一人で流れに逆らったら目立つかもしれないと一瞬不安になったが、他の部屋へ友人を迎えに行くなど、真っ直ぐに食堂へ向かう者ばかりではないらしい。
と言うか、グループが出来上がっているこの状況では奇声をあげたり暴走したりしない限り、適度に地味な俺が視線を浴びることはないような気がする。
小さな塊になって歩く生徒たちの間を縫うようにして部屋に辿り着くと、開錠の音に気付いた高杉がリビングから顔を覗かせた。
「ツッキー、おかえり〜」
「ただいま。遅くなってごめんな」
「ううん、読みたい本あったから」
靴を脱ぎながら謝罪した俺に、持っている本を軽く掲げて笑う。
「今ね、丁度読み終わったとこなんだ。ナイスタイミングだよ」
「そりゃ良かった。じゃあ俺、今着替えて‥‥、ん?」
自室に向かいかけた足をピタリと止めて振り返る。
じぃ、っと見つめられてどうしたの?、と首を傾げる高杉は、制服姿だ。
「……高杉、着替えないのか?」
「え? 着替えるって…何で?」
何で?
「…制服で夕飯食べるのか?」
「そうだよ? 昨日もそうしたでしょ?」
いや、確かに昨日は制服で食べたけど、あれは編入初日でドタバタしてたから着替えるタイミングがなかったというか、服装を気にする余裕がなかったというか…。
登校する前の朝食はともかく、授業が済んだ後の夕飯は私服で食べるのが普通じゃないのか??
不思議そうな顔で俺を見つめ返していた高杉は、ふいに何かに気付き、目をパッと大きくした。
「あっ、そっか。ツッキーって寮生活初めてなんだっけ。あのね、寮では基本的に制服で行動しなきゃいけないんだよ」
「え、…」
「大浴場の帰りは私服でもいいんだけど、その後食堂に行くなら制服に着替えなきゃいけないし、朝でも夜でも談話室とか娯楽室を使う時は制服姿って決まってるんだ。あ、休日は私服で過ごしていいんだよ? 集会とか会議があれば別だけど」
そうか…そうだったのか……。
でも、考えてみればそれが普通だよな。
ここは空飛学園に通う生徒たちが過ごす場所で、校舎と同じように学園経営者の管理下にあるんだから。
「セーターとかカーディガンも駄目なのか?」
「それは大丈夫だよ。集まりに出るんじゃなければ、ワイシャツの上はセーターでもカーディガンでもパーカーでもジャージでも構わない、ってなってるから」
「…意外と緩いんだな」
「上だけね。下は制服のスラックスしか駄目だよ。‥着替えてく?」
「ああ、カーディガンにするよ」
「じゃあ、先に出てるね」
高杉はハードカバーの本をリビングのテーブルに置いて玄関へ向かい、俺はブレザーとカーディガンを交換すべく、自室のドアを開ける。
一歩入って、あ、と思った。
薄暗い部屋の机の上に鎮座している、矩形の物体。
……早いとこ設定しないとな。
「ねえツッキー、ツッキーの前の学校って共学だったんだよね?」
ブレザー派とカーディガン(若しくはセーター)派は大体同じ割合か、と思いながら周囲を見回していた俺は、高杉からの問いかけに前を向いた。
今回は小さめのテーブルを選んだ為、高杉は正面に座っている。
「そうだけど?」
「付き合ってる人とか、いなかったの?」
「…へっ?」
予想していなかった質問に思わず変な声が漏れる。
え、あの、どうしたんですか、高杉さん。
大きなお目目がキラキラしてて、肌理の細かい綺麗なお肌が期待の色に染まっていらっしゃるんですけど?
俺、妙な誤解を与えるような発言、貴方にしましたっけ?
「……いそうに見えるか?」
「え? うん!」
いや、そんな、自信満々に頷かれてもね?
( 恋人なんて )
「いないし、いたこともないよ」
真っ直ぐに注がれる視線から目を逸らし、お茶を飲むことで唇が自嘲に歪むのを誤魔化す。
男子高校生が色恋に興味を持つことや彼女が欲しいと思うことは至極当然であり、また普通であると言えるだろう。
誰かに疑問を抱かれることでもなければ、咎められることでもない。
けれど、それは、
( 裏切りだ )
他者に安らぎを求めることも、愛されたいと願うことも、俺には許されない。
「性格的に合わないんだろうな、きっと」
あの人はずっとひとりだった。
俺が感情のままに身勝手な言葉を叫んだから。
優しいあの人はひとりで生きる道を選んだ。
俺の「認めない」という言葉が、あの人の前から他の選択肢を消してしまった。
だから、許されるはずがない。
あの人から大切な人を奪った俺に、新たに大切な人を作る機会すら奪った俺に、特別な存在を望むことが許されていいはずがない。
「えー、そうかなぁ…? じゃあ、好きな人は? 初恋はいつだったの?」
「あ゛ー…期待に添えなくて悪いけど、そっちも全くナシ」
自分の過ちに気付いた時、俺は絶対に心を動かさないと決めた。
「そう言う高杉は?」
「俺?」
きょとんとして目をぱちくりさせる高杉に頷く。
「イエス、貴方」
「俺は――…。一応、付き合ってる人がいる、かな」
意味深な言葉のセレクトに疑問を抱きつつも、全寮制の男子校にいたら外部の人間と付き合うのは色々大変なんだろうなあ、と勝手に解釈する。
二人が今どういう状況にあるのかはさっぱりわからないが、高杉の顔が一瞬曇ったからあまり細かく訊かない方がいいだろう。
第一、この俺にまともなアドバイスなんて出来るわけがない。
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