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硝子に罅が入る時刻。




「そもそも、お前が疲れてんのはお前に体力がねェからだろうが。人の所為にしてんじゃねェよ。ちゃんと肉ついてんのか?」

「体力ねえな、なんて言われたことは一度もありませんし、肉がついていなければ人は生きていられないと思うんですが」

「いっちょまえに口答えしてんじゃねェよ。女みてェに薄っぺらい身体しやがって」

「はぁ?! 誰がおん…っ!」

 っぶね! いきなりもの投げんじゃねえよ!

 ローテーブルの幅しか距離ねえんだぞ?!





神様は悪戯に夜を照らし 03





 ていうか、セクハラですか?

 セクハラですかそれ?

「お前のルームメイト、確かC組の高杉だったよな?」

「‥‥随分素敵な話題転換の方法デスネ」

「上手くやってけそうなのか?」

 顔面に向かって投げつけられた英語と数学のワーク――本当にペラペラだ――を膝の上で揃えながら非難の滲む平べったい声を出してみたんだが、コーヒーを口に運ぶ緒川には聞こえなかったらしい。

 いや、ここは正直に無視されたと言うべきか。

 ほんと横暴な教師だな。

 俺は長い足を嫌味ったらしく組み替える緒川に諦めの溜息をつき、柔らかいソファーに背を預けた。

「まだ二日目なんで何とも言えませんけどね。それなりにやっていけそうですよ」

「他人事みてェに言ってんじゃねェよ。もう『ツッキー』って渾名で呼ばれてんだろ?」

「…随分とお耳がお早いんですね」

 からかうように顔を歪めた緒川に、俺は正反対の意味で顔を歪めた。

 俺の名前を聞いてすぐに思いついたらしい高杉に貰った「ツッキー」という渾名は俺に似合わず可愛い響きを持っているような気がするが、別に嫌ではない。

 でも、ニヤニヤ笑いながら言われたら誰だって気分悪くなるだろ?

 その笑みに含まれる意味なんて知りたくもない。

 わ か っ て る か ら 。

「運良く同じ卑族の部屋に入れたんだから、仲良くやれよ。くだんねェ問題なんか起こしやがったらぶっ殺すぞ」

「―――…人には、出来ることと出来ないことがありますよね」

「‥、オイ。そりゃどういう意味だ」

「さあ、どういう意味でしょう?」

 今度は俺がからかうように顔を歪め、緒川が訝しげに眉を寄せる。

 わからなくて当たり前。

 だからそんな目で見たって胸中は覗かせてやらない。

「お前、」

「お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。先生」

 わざと被せて余所行きの顔でにっこり笑う。

 危うく顔面キャッチをしそうになった英語と数学のワークは二学年に進級する全ての生徒に配られた宿題で、俺は表向きは家庭の都合で入寮が遅れた外部からの編入生ということになっているから、当然持っているという認識をされているらしい。

 しかし、正規の手順を一切踏まずに新幹線もびっくりのスピードで編入することになった俺がそんなものを学園から受け取っているはずもなく、堂々と担当教師に持ってないんですけど、と貰いに行くわけにもいかず。

 唯一事情を知っている担任の緒川がこっそり調達してきたわけだが、この二冊は一番最初の平常授業で答え合わせをすると言うから今日中に終わらせた方がいいだろう。

 よって、長居は無用。

 ローテーブルの脇に移動されていた自分の鞄にワークを仕舞いこみ、俺はソファーから立ち上がった。

「失礼します」


 目の前にある姿が真実だなんて、思わない方がいい。







「ただいまー」

 胸にかかった仄暗い靄を追い払うべく、玄関のドアを開けると同時に元気よく帰宅の挨拶を口にする。

 が、リビングを突っ切って個室の前に辿り着いても高杉からの返事はない。

 靴が見当たらなかったからきっと友達の部屋にでも行っているんだろう。

 部活動には所属してないって言ってた気がする。

 ……そう、部活動。あるらしいんですよ、部活動。

 お貴族様が通うお坊ったま学園にも、公立校と同じように運動部や文化部、同好会なんかが。

 活動内容も聞く限り、公立校と大して変わらないらしい。

 流石に費用は比べ物にならないみたいだけどな。

 予想を遥かに超える校内や寮内を見た瞬間に青春の象徴である「部活動」という言葉は俺の頭の中から綺麗さっぱり消えていたから、高杉に部活はどうするのかと訊かれた時には本当にびっくりした。

 びっくりし過ぎて声が出なくて、高杉に大丈夫かと心配されるくらい、マジでびっくりした。

 まあ、帰宅部だった俺にはどうでもいい話なんですがね。

「………ワーク、夕飯前に片付けるか」

 鞄と一緒にダイブしたベッドから身体を起こし、ネクタイの結び目に人差し指を突っ込む。

 シュルシュルと緩めて外したそれを天井に向かって放り投げると、すぐに乾いた音を立てて床に落下した。

 当たり前だ。いくら軽くたって宙に浮けるはずがない。

 俺は足元のネクタイを拾い上げ、着替える為にクローゼットを開けた。

 扉の内側についている姿見に薄笑いを浮かべた自分が映る。

「馬鹿月夜…掻き混ぜてどうするんだよ。全員、一部しか見えてないのに」

( お前が一番見えてるのに )

「面倒が増えるだけだろ。灰色は白に変わらないんだ」

 いや、違う。

 白に変わる灰色なんて一番欲しくないんだ。

 そんなもの要らない。

 白は白のまま、黒は黒のまま、灰色は灰色のままでいてくれなければ困るから。

「お前は知らないふりをしていればいい。何かに気付いても、何かを覚っても。その時がくるまでは、黙っていればいい――…卑怯なのはお互い様だ」

( 自分から白状する気なんてさらさらない )

「…、もう‥‥慣れた」

 あの日から一体どれだけの言葉を飲み込んで来ただろう。

 言ってはいけない、知らせてはいけない、教えてはいけない、と。

 時には自分の為に口を噤み、時には親父の為に――――いや、全て自分の為か。

 俺は誰かを思い遣れるほど綺麗な人間じゃない。

 自分が望むことの為なら親の幸せさえも平気で奪う、醜い人間だ。

 あの人はあんなにも綺麗だったのに。

 強さと美しさを兼ね備えた、真っ直ぐな人だったのに。

 今の俺の中にはあの人が厭うようなものしか残っていない。

 優しいものや温かいものは全部、あの日に置いて来てしまった。

 与えられた愛情と一緒に。


「…は、なにセンチぶってんだよ。やめやめ! 二日目にしておセンチとか、ホームシックじゃねえんだから――、さ?」

 大きな声を出しながら大きな動作でブレザーを脱ぎ、無理矢理靄を掻き消した俺の耳に届いたのは、聞き慣れないインターホンの音だった。





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