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紅茶に溶ける銀の花。02

イクチヨモ、カナシキヒトヲ。


 理事長に『カナのことは気軽に“カナさん”か“カナ先生”て呼べばええさかい』と言われた時、卯月はわかりましたと頷きながら、内心では冗談じゃない、と吐き捨てた。

 今年度から理事長の甥が働くことは三月の中頃に知らされていたし、名前に「かな」が含まれることも知っていたが、まさかそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったからだ。


『それ、野良猫だろ? ボコボコにされてまで護る価値、あるの?』
『‥、…誰だお前』
『あれ、知らない? “深紅のあいつ”って』



 彼女の発言を咎める者は恐らくいないだろう。

 勿論、立場上彼らが文句を言うことなど有り得ないのだが、殆どの者が理事長と同じ苗字は呼び辛いから提案してもらえて助かった、と思ったに違いない。

 卯月自身、養子縁組をして息子になったという彼の名前が「かな」を掠りもしなかったなら、呼び方を考えずに済んだと彼女の気遣いに感謝していたかもしれない。


『だから誰だ、って訊いてんだろ』
『えー……じゃあ、カナ。“カナ”でいいよ』



 しかし、卯月にとって『カナ』という名前はとても特別なものだった。


『はっ、なんだよそれ。自分の名前もねぇのかよ』
『売りたいわけじゃないし』



 どんな風に特別なのかと訊かれてもきっと上手くは説明出来ないだろうし、特別だと思う根本的な理由すらはっきりとしたかたちをとることはないけれど、自分の知る「彼」に対してしか口にしたくないと思うくらい、『カナ』は唯一無二の名前なのだ。

 だから、たった一人の家族を失い、自暴自棄になりかけていた自分を雇ってくれただけでなく、本当の息子のように可愛がってくれている理事長には悪いけれど、心底申し訳ないと思うけれど、彼女の口から『カナ』という名前が出る度に卯月は笑顔が引き攣り、腹の底をドロリとした何かが流れるのを感じていた。


『野良猫庇って足怪我して、明らかに格下の餓鬼三匹にズタボロにされて。ほんと馬鹿だな』
『うるせぇな。馬鹿だと思ってんなら助けなきゃいいだろ』



 何故親友の息子というだけでこんなにも良くしてくれるのかと訊いた時、彼女は甥と似たような境遇だからほっとけないんだと言ったが、そんなことは関係ない。

 一ミクロも関係ない。

 幼い頃に両親が離婚して父親との思い出が全然なくて、女手一つで育てられて、迷惑ばかりかけてしまった母親を病気で亡くして、……だから?

 そんなことが『カナ』を名乗る資格になるとでも思っているのか。

 理事長の甥でも『カナ』と呼ばれるなんて図々しいにも程がある。

 と、何度軌道修正を図っても辿り着く結論は傲慢過ぎるもので、一向に変わらない。

 お陰で麗らかなはずの四月は初っ端から胃痛と頭痛に悩まされ、卯月の機嫌は下降するばかりだった。


『別にあんたを助けたわけじゃないよ』
『猫を助けたんだろ。言われなくてもわかってんだよ』
『や、猫でもないけど』
『は? …じゃあ何を助けたんだよ』



 英語教師の堀川が本人を連れて来た時には来やがったか、とここ数年口に出す機会を失っていた汚い言葉が喉の奥で転がり、許されるならお前なんかお呼びじゃねぇよ、と実際に音にしてしまいたかった。

 そもそも理事長は理事長であって『カナ』ではないし、彼女の息子はただの『カナ』であって卯月の知る「彼」ではないのだ。

 理事長に感謝していようが恩を受けていようが、彼には何も感じない。

 恩義など欠片もない。

 怒りにも似た理不尽な感情があるだけだ。


『何も助けてないよ。助けようと思ったわけでもないし。……強いて言うなら、野良猫を護ろうとしてる不良くんの気持ちを尊重しただけ』





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