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八回目の嘘。
※暴力流血表現※


 雑誌の発売日であり、期末考査の初日でもある、水曜日。
 割り当てられた教科の試験を終えて帰ろうとした時、携帯に陸大からの着信が入って。


『女の命が惜しかったら今すぐ家に帰って来い』


 もしもし、と言う暇もなく、鋭い声が鼓膜を突き抜けた。



口が虚しい、と書いて嘘。




「…ッ、」

 予想出来ていた言葉に、それでも俺は一瞬息を呑む。
 陸大に知られる可能性が高いことはわかっていたけど、当日に、しかも午前中に連絡してくるとは思ってなかったからだ。
 試験期間がズレてるから平常授業のはずなのに…早退でもしたのか。

 どうした、と心配そうに眉を寄せる珠樹に大丈夫だと手を振り、ひと気のない廊下の隅に移動する。

「母さんに危害を加えるな。全部俺一人が考えたことだ」
『――今すぐ来いッ!!!』

 悲鳴のような怒声に思わず携帯を遠ざけると、一方的に通話が切られた。

「……腹、括るか」


 始めたのが俺なら、俺の手で終わらせなきゃいけない。





 門扉の前に珠樹を置いて家に入る。
 外には何の音も響いていなかったけど、玄関を開けた瞬間、ピリッとした空気に肌を刺された。
 息をすることさえ戸惑うような、重く鋭い痛み。
 まるでこの家全体が陸大に共鳴して、俺の侵入を拒んでいるようだ。

 粉々に砕けた花瓶の破片と萎れた花を壁際に纏め、小さな水溜りを避けて廊下を進む。
 陸大の声も母さんの声も聞こえない。
 でも、二人がどこにいるかは…どこで俺を待っているかは、わかっていた。

 不自然な程に静かなリビングは、いつも以上に荒らされている。

「陸大、母さんを放せ」
「…っ、たか、ひろ……」
「…………」

 首筋に包丁を突きつけられている母さんの声は、恐怖に歪む顔のように引き攣っている。
 きっとさっきまでは陸大の存在が恐ろし過ぎて悲鳴すらろくに出なかったんだろう。

 ごめん。ごめん、ね。全部俺が悪い。

「陸大」
「……なんで、この女が大事なんだよ。この女に何の価値があるんだよ。なんで、なんで僕より…!」
「陸大。母さんを放せ」
「ッ、負け犬の分際で偉そうな口を利くな…っ!!」

 右腕を大きく振りかぶる陸大。
 その手には勿論包丁が握られている。
 わかっていて、俺は動かなかった。
 陸大が外してくれることを期待したわけじゃないし、当たらないという自信があったわけでもないけれど。

 俺は自分に向かってくる包丁を黙って見つめた。

「……ッ!!?」

 視界の隅で真っ青な顔をしていた母さんが喉で悲鳴を上げる。
 俺の左頬を僅かに傷つけた包丁は壁にぶつかってから床に落ち、鈍い音をたてた。

「母さん、こっちに来て。自分で立って、ここまで来て」
「…、‥たかっ、ひろ…」
「外に珠樹がいるから。俺が呼びに行くまで、珠樹の家にお邪魔してて」
「た、たかひろ、たかひろ、」
「大丈夫だから。呼びに行くまで待ってて」

 震える母さんをそっと廊下へ出し、リビングのドアを閉める。
 ふと視界に入った包丁をどうしようかと見つめていると、後ろから陸大の声が聞こえた。

「お前は、いつもそうだ。僕のことより、あの女を優先する。……あの女に、一体どんな価値があるっていうのさ」

 振り向いた途端、俯いていた陸大が顔を上げる。
 意図的に二人きりになるのはどれくらいぶりだろう。

「母さんを母親と思っていないお前には、話したってわからない」

 そうさせてしまったのは、俺だけど。

「っ…また、僕を置いて行くのか」
「‥この家から先に出て行ったのはお前だろ」
「煩い!!」

 三分の一以上を破かれた雑誌が床に叩きつけられ、小さな紙屑がふわりと舞い上がる。

「あの時みたいに、黙って僕を独りにして、あの女の為に生きるのか…っ」
「…陸大には関係ない」
「なんであの女なんだ! なんで僕じゃないんだよ…っ」
「どうして、俺が、陸大を選ばなきゃいけないんだ」
「――!!」

 大きな目を更に大きく見開いた陸大は、俺を床に押し倒して襟を鷲掴んだ。

「放っておけばいいじゃないか! 自分の息子に護ってもらうしか能のない女なんて!!」

 何色の侵食にも挫けない、漆黒の瞳。
 一卵性双生児の俺たちのそれは同じはずだけど、陸大の瞳は酷く綺麗だ。
 常に前向きで、向上心が強くて。

 俺は陸大のようには生きられない。

「母さんを弱くしたのは、俺だよ。母さんが悪いわけじゃない」

 俺が陸大の隣を離れて母さんの傍へ行かなければ、陸大が片割れを失った怒りを母さんに向けることもなくて、母さんが陸大の言葉に傷つけられることもなかった。

「‥っ、ああそうだよ! 空大が悪いんだよ!! あの女も僕も、父さんも悪くない! 全部空大が悪いんだっ!」

 悪循環の原因が誰かなんて、本当はわかってる。

 ――――壊したのは、俺だ。

 寡黙な父さんとお淑やかな母さんから生まれた俺と陸大は、活発で怜悧な子供だった。
 幼稚園に上がる前には自分のだけでなく家族の名前も漢字で書けたし、九九も覚えていた。
 小学校のテストなんてそれほど難しくはないけれど、七十点台や八十点台が多い中、俺と陸大はほぼ毎回満点。
 走ることでもクラスの誰かに負けたことはないくらい、勉強も運動もずば抜けて出来ていた。
 それだけでなく、容姿も性格も可愛らしいと、近所では評判の双子だった。
 先生にも、父さんにも、近所のおばさんたちにも褒められて、毎日が楽しかった。

 でも、ある日、俺は気付いてしまった。
 俺たちを見守る母さんが、いつもどこか悲しい顔をしていることに。

 一度気付いてしまったら、見なかったことにするなんて到底出来なかった。

「‥‥これしか、思いつかなかったんだ」

 鳳家で唯一、平凡と呼ばれる母さんの居場所を作る為には。

「平凡なふりをすることしか、思いつかなかったんだ」

 父さんは優秀な者にしか感情を向けない。
 最高の結果にしか興味を示さない。
 母さんとの結婚だって家柄で決めたようなもので、俺と陸大が頭角を現してからは母さんを『もう用済みだ』と言いたげな目で見ていた。
 それでも体裁を大事にする父さんが、離婚して母さんをこの家から追い出すことは有り得ない。

 だから。

「……それで、何か良くなったのかよ。空大がつまらない結果を出す度に、あの女を見る父さんの目は冷たくなっていったんじゃないのか」
「そうだよ。でも、陸大の生活が部活中心になってからは会社やホテルに泊ってばかりで、家に帰ってくることが少なくなったんだから、母さんの負担は減ったはずだ」
「そもそも、その負担は空大の所為で増えたものだろ。…いい加減、気付けよ。独り善がりだって気付けよ!! お前がしたことで喜んだ人間なんていないっ!!」

 俺は母さんを自由にする為にはどうしたらいいか、ずっと、

「黙れッ!!!」

 ずっと、その方法を考えてきた。





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