イクチヨモ、カナシキヒトヲ。 これは久美子さんによる嫌がらせだ。 理事長室でお茶と饅頭を俺に振舞った後、久美子さんは他の職員がいる職員室へ俺を連行した。 勿論、覚えているから独りでも問題ないと遠まわしに同伴を拒否したんだが…。 母親に紹介させなさいって言って、息子のお受験に付き添う教育ママの如く俺の手首を引っ掴んで離さなかったんだよ、あの人。 理事長と一教師の間に母親も息子もないのにな。 有無を言わせない笑顔で「理事長命令や」って。 でも、まあ。 俺が嫌がるのを承知の上でそうしてるってわかってても、悪意があるわけじゃないこともわかってるから無理矢理引き剥がすなんて出来ないし。 …本気で逃げようとすれば容赦なく指の痕がつく程の力で拘束されるに違いないし。 ――食えないのは久美子さんの方だ。 そういうわけで、最初から諦めること以外の選択肢を与えられていなかった俺を連れて久美子さんは笑顔のまま職員室の戸を叩いた。 …そこまでは良かった。 そこまでは何の問題もなかったんだ。 でも、俺のことを短く紹介して、俺自身の挨拶が終わった、後。 職員の方々に新任教師として温かく受け入れられた、後。 久美子さんは唐突に言い放ったのだ。 『皆はん、カナのことは“カナ先生”って呼んでおくれやす』 と。 何の躊躇いもなく、それがこの場を綺麗にしめる言葉であるかのように。 そして俺はフリーズしながら悟った。 久美子さんが一緒に職員室へ来たがったのは、母親として息子を紹介する為ではなく、俺の前で俺の呼称を宣言する為だ、と。 理事長直々の言葉であれば有名私立校に勤務する彼らは当然、頼みという名の命令を受け入れるし、俺だっていくつもの目がある場所で嫌だとは言えない。 ……あの瞬間、俺の目を覗き込んだ久美子さんの得意気な笑顔が頭から離れない。 「‥、くそ…」 「? カナ先生、何か言いましたか?」 「いえ、何も」 別に『カナ先生』という呼称自体に不満はないんだ。 むしろ読み辛い名前を正確に覚えてもらう為には『苗字+先生』より何倍もいいと思う。 堅苦しいのはガラじゃないし。 でも、フレンドリーで笑いの絶えなかったアメリカと日本じゃ雰囲気が違うって言うか…自分より年上の教職員に義務のようなもので『カナ先生』と呼ばれるのは妙に気恥ずかしいというか。 まあ、自分が最年少、って環境は同じなんですがね。 欠陥だらけの俺でも、こういう感情は持ち合わせてるんですよ。 久美子さんもそこんとこはよくわかってると思うんですよ。 だからこれは久美子さんの嫌がらせだ。 親不孝の息子に、慣れるまで存分に恥ずかしい思いをしろ!、っていう。 ―――…、あれ。 今なんかもの凄く嫌なことに気付いたぞ。 三学年八クラスの英語+S組の仏語に始まり、3Gの副担、そして『カナ先生』……もしかしなくても嫌がらせ三昧じゃないっすか。 久美子さん、ストレスが溜まってるなら旦那さんと海外に行って羽を伸ばされるのがよろしいかと存じます。 「はあ……」 「あっ、堀川先生!」 低く重たい溜息を吐いた時、隣の藪下が突然大きな声を出した。 NEXT * CHAP |