『そうか……お母さんの具合が悪いんじゃ、しょうがないな。映画はまた今度にしよう』 「…ごめんね、先生」 近い将来に“また今度”があるかどうかはわからないけど。 『――…空大。俺のこと、好きか?』 「、…なに、突然」 『いや‥ちょっと、聞きたくなって……、』 そう、聞きたいのなら何度でも言ってあげる。 「好きだよ、悠平」 俺が『僕』をやめるまでは、ね? 口が虚しい、と書いて嘘。 世間に対して何百匹もの猫を被っている陸大は家の中では傍若無人に振舞うけれど、足の踏み場がなくなる程に何でもかんでも投げ飛ばして散らかすわけじゃない。 土曜日には陶器が一つ割れてしまったがあれは俺の不注意が招いた結果であり、陸大は基本的に何かを傷つけるようなことはしない奴だ。 母さんもそれはわかっている。 …わかっている、けれど。 “陸大がいる”というだけで母さんの心は圧迫される。 二階の自室で寝ているとわかっている時でさえ神経が休まらないのだから、心身ともに疲弊して体調を崩すのは当然のことだろう。 顔色の悪い母さんを残して出かけられるはずもなく、日曜日の先生との約束はキャンセルせざるを得なかったが、別に不満はない。 前売り券を買っていたわけでも、絶対に観たいと思っていたわけでもないからだ。 けれど…たとえそうだったとしても、俺は不満を抱くことなどなかったと断言出来る。 相手が母さんなら。比べるものが母さんなら。 俺は予定を潰されても不満になんて思わない。 俺の中の最優先事項はあの頃からずっと、常に母さんだから。 世の中にはマザーコンプレックスやエディプスコンプレックスという言葉があるけれど、それらを混ぜ合わせたってこの感情を表現することは難しいだろう。 料理、掃除、洗濯…などなど。 一仕事終えてから家を出た俺は、丁度昼食時に教室へ辿り着いた。 丁度、って言っても、こうなることを計算して登校して来たんだけど。 「おはよー」 「あ、空大じゃん!」 「おーとり、おっはー!」 「いやもう昼だし!」 ドア一枚隔てた教室内は惣菜パンやお弁当の匂いで埋め尽くされていて、刺激された胃がきゅう、と小さく鳴る。 …一時間くらい前に食べたばっかなんだけどな。 駅前のコンビニでレモンティーと一緒にデザートでも買ってくれば良かった。 「「鳳くん、おはよー!」」 「「今日も綺麗だねっ」」 「「ばっか、オオトリくんは可愛いのよっ!」」 「「ジューヤク出勤のくせに…ッ」」 「「くそーっ、なんでおーとりばっかり…!!」」 そこここから投げかけられる言葉に笑いながら返事をしつつ。 自分の席に鞄を下ろすと、目の前にあるベランダから珠樹がにゅっ、と姿を現した。 「……おはよ、珠樹」 「んあひょ」 「‥うん、……噛めば??」 本日の昼食は焼きそばパンらしい。 珠樹はここの購買で売られているそれを気に入っていて、週に三回は必ず買いに走っている。 …が、何故に銜えたままなのだろうか。 咀嚼することもせずに真顔でパンを銜えている珠樹を幼馴染として微妙な心境で見つめていると、後ろの方から女子の囁きが聞こえてきた。 珠樹くんかわいーv、とか。 アホ面でもかっこいーv、とか。 こっち向いてぇ〜v、とか。 ほんと、女子の感覚ってわからない。 …まあ、焼きそばパンを銜えてても美形は美形、ってのには賛成するけどね。 「おーとり!」 「んー?」 「これ! これ、見たか??」 ウエキンのお陰で超当たりだと判明したレモンティーと携帯を持って窓を乗り越えようとしたところを、背後から呼び止められた。 これ、って何? 窓枠に片足を上げた状態で振り返れば、眼前には左右に開かれた雑誌があって。 「おーとりの弟、また載ってるんだな!」 「あー……、そうみたいだね」 ユニフォーム姿の陸大が天使のような微笑みを浮かべていた。 「凄いよな…。何ページも載ってるの、おーとりの弟だけだぜ?」 「そりゃー、大会記録も持ってるし、このルックスだからな〜」 「陸大くんの愛くるしさに記者もメロメロ(笑)、だって」 「マジ、陸上やってる奴の顔じゃないよなー。足もほっそいし!」 陸上部の奴らが集まりだし、俺の机に置かれた雑誌を丸くなって覗き込む。 兄弟であることが発覚した高一の頃は随分と騒がれたりしたけど、今では陸大のことを細かく訊いてくる奴もいない。 珠樹から聞いた話しによると、誰かが平凡な兄に優秀な弟のことをあれこれ訊くのは失礼だ、って注意したんだとか。 平凡な人間に見えるように生きてる俺にはそんな気遣い、無用なんだけどね。 正直な話し、陸上に関しては知らないことだらけで陸上部員の方が詳しいことも多いから、質問されないのは助かってる。 ―――あと、少し。 「……空大?」 いつの間に食べきったのか、訝しげに首を傾げる珠樹の口に焼きそばパンはなかった。 一口貰いたかったのに…。 生温い風が通り過ぎるベランダに出てコンクリートに座り込み、空を見上げる。 この青に区切りがないのなら、半月後に見る青も今と変わらないのかな。 俺の目には同じように映るのかな。 それとも、気分によっては鈍ることも透き通ることもある? 「どうした…?」 「あの月刊誌、先週の金曜に発売されたんだよな」 「‥それがどうかしたのか?」 『あっ…!』 『先生?』 『、何でもないよ。さ、乗って』 「俺の中の小さな罪悪感が、少しだけ軽くなった」 「…?」 「アレ、あの人の車にあったから」 俺は陸上関係の雑誌を買ったことなんて一度もないけど、あの人はきっと陸大が載る度に買ってるんだろう。 毎月本屋でチェックしてるのかもしれない。 ぺらぺらの紙の中に求めるくらい忘れられないなら、さっさと俺をふればいいのにね…――なんて。 中途半端に『僕』を演じてる俺の台詞じゃないか。 空を見上げたまま自嘲する俺の肩に、珠樹の頭がこつりとぶつかった。 NEXT * CHAP |