「おーとりー!」 昼休みが終わる頃、教室内にウエキンの声が響いた。 「何ですか?」 「ちょっと来い」 窓から顔を出して訊けば、ちょいちょいと手招きされたので、レモンティーと携帯を机の上に置いてからドアに向かう。 この距離で話せないってことは、部活のことじゃないんだろう。 「今、下にスカウトマンが来てな」 「…は? アレックスがですか?」 「ああ。校長が応接室に通したから、行って来い」 「いやいや、行って来いって、もうじき予鈴鳴りますけど」 壁掛け時計を指差した瞬間、カチリと長針が動く。 予鈴まであと一分、五限開始まであと六分しかない。 にも関わらず、ウエキンは俺の背中を押した。 「五限は公欠扱いにしてやるってよ」 「はぁ?! …マジですか」 「マジだ。だから全校放送で呼び出される前に行って来い」 口が虚しい、と書いて嘘。 長い足を組んでソファーに座っていたアレックスは、にこやかな笑顔で俺を出迎えた。 「やあ、タカヒロ。久しぶりだね」 「…先週の水曜日に会ったばかりですよ、アレックス」 差し出された手を軽く握ってから向かい側に腰をおろす。 応接室の高そうなソファーに座るのはこれで二回目だ。 「はい、これ。タカヒロにあげる」 「…タンブラー、ですか?」 「と、中身」 ローテーブルの上に置かれたのは、どこかで見たことのある携帯用タンブラー。 どこだっけ? 最近見た気がするんだよな。 飲んでいいよ、と言われてキャップを開けると、小さなそこから爽やかな香りがした。 「‥! これ、もしかして…」 「そう、あのカフェの。タカヒロ、それ美味しいって言ってたでしょう?」 驚く俺を見つめ、アレックスは嬉しそうに笑う。 あのカフェ、と言うのは、アレックスと編入についての話し合いをしたカフェのことだ。 正式に決定するまでは珠樹にも母さんにもバレたくなくて、ウチの高校の生徒が行かないような場所を選んでもらったから、普段の生活圏内にはない。 …アイスティー好きの俺の為にわざわざ買って来てくれたのか。 「ありがとうございます」 「どういたしまして」 頭を下げた俺にアレックスは喜んでもらえて嬉しいよ、と言って、コーヒーを口に運んだ。 きっと校長が手ずから淹れたものだろう。 我が校からアメリカの有名私立校への編入者が出るなんて!、って。 先週の水曜日は踊りだしそうなくらい喜んでたもんな。 アレックスが終業式までは絶対に漏らさないで下さいね、って念を押しとかなきゃ、今頃学校中の生徒が俺の編入を知っていたに違いない。 まあ、顧問のウエキンと相談して、部員にだけは先に伝えたんだけど。 「…それで、何のご用ですか?」 「うん?」 「これを渡す為だけに来たわけではないでしょう」 タンブラーをローテーブルに戻し、青みがかった灰色の瞳を見据える。 「俺の編入に関して、何か問題でも出てきましたか?」 「相変わらずつれないな、タカヒロは。私がキミに会いたくて来た、という選択肢はないのかい?」 「‥ありません。アレックスはそんなことで俺に授業をサボらせたりしないでしょう」 「わからないよ?」 くすくすと上品に笑うアレックスは、鞄の中から取り出したものをローテーブルに載せた。 「今日会いに来たのは、これを渡す為」 「……有名な月刊誌ですね」 教室で見た陸上の月刊誌が陸上界で一番有名な雑誌なら、これはバスケ界で一番有名な雑誌だ。 幅広いカテゴリーを取り扱っているだけでなく、他誌にはない選手のプライベートな情報がファンの心を掴んでいる。 妙に嫌な予感がするのは何でだろう。 「この『特別号』がどう…、っ!」 「タカヒロが載ってるページ」 カラフルな表紙の文字を追っていた目が一箇所で留まった瞬間、俺の表情を窺っていたアレックスが雑誌を開いた。 バッ、と重たい音が鳴って、伊達眼鏡をしていない俺が現れる。 「明後日発売だから、先に渡しておこうと思って」 「……アレックス」 「いい表情ばかりでしょう? 本当、バスケが好き、って顔してる」 「アレックス」 「なに?」 俺が何を言いたいのかなんて十分過ぎる程わかってるくせに、知らないふりをして微笑む。 アレックスのこういうところが嫌いだ。 穏やかな物腰、優しげな顔。 口調と表情をそのままに、触れられたくないと思ってる場所に平然と触れてくる。 「俺は載せていいなんて言ってない。載ることに決まったなんて聞いてない」 「そうだった? でも私と契約した時点で、タカヒロに『載せるな』と拒否する権利はないんだよ?」 「…夏休みに入るまで待って下さいと言ったはずです」 月刊誌に載ること自体は構わない。 好き勝手に書いてくれていい。どんな写真を使われてもいい。 でも、学校がある時に出されるのは困る。 陸大の目に入る危険があるからだ。 俺が渡米することを知れば、陸大は何をするかわからない。 ――――俺の計画が、小さい頃からずっと願ってた夢が、壊される。 夏休みに入ってからなら、練習の厳しい陸上部に所属する陸大がこの存在を知る可能性は低いだろう。 あそこの陸上部は陸大をアイドルみたいに大事にしてて、駄目兄貴の存在を邪魔だと思ってるから、俺がやってるバスケの月刊誌をわざわざ買うとは思えない。 でも、夏休みに入る前なら、バスケ部の誰かが買うかもしれない。 『鳳空大』という名前を見つけて、陸大に喋るかもしれない。 全寮制だから夏休み中でもこの特別号を買った人間がいればすぐに陸大に伝わるんだろうけど、終業式が済んだら俺は母さんと一緒にアレックスが泊ってるホテルに移る。 渡米するまでそこで過ごして、陸大と母さんを会わせないようにする。 だから夏休みに入るまでは待って欲しいって、言ったのに。 「編集者に知り合いがいるから相談してみる、って言いましたよね? あれ、嘘だったんですか?」 「ちゃんと相談したよ。でも、特別号の発売は通常の月刊誌の十日前って決まってるから、変えられないって言われたんだ」 「…俺の記事を載せるのは別に八月号でも良かったんですよね」 「ダメダメ、タカヒロの記事は特別号じゃないと。八月号じゃ意味がないよ」 「――夏休み前に発売される雑誌に載せるって、最初から決めてたんですか」 膝の上で手を握り締める。 俺は馬鹿だ。何で安心してたんだろう。安心出来る要素なんて一つもないのに。 「こうでもしないと、アツヒロは知らないままでしょう?」 アレックスが相手の心を掻き乱すことに何の躊躇いも覚えない人間だ、って。知ってたのに。 NEXT * CHAP |