隣に住んでいる珠樹と門扉の前で別れ、夕刊をとってから玄関へ向かう。 「ただいまー」 「おかえり、空大」 「! …陸大(アツヒロ)…」 電灯の優しい色を浴びながら俺を出迎えたのは、母さんではなく、弟だった。 口が虚しい、と書いて嘘。 「負け犬が集まった弱小バスケ部のくせに、帰りは遅いんだね」 真っ黒な髪と瞳。 すらっとした肢体に、小作りの綺麗な顔。 髪の長さは違うけれど、一卵性双生児の俺たちの外見は、高校二年生になった今も瓜二つ。 「帰ってくるなら事前に連絡しろよ」 でも、俺と陸大の生き方は少しも似ていない。 「どうして自分の家なのに連絡しなきゃなんないのさ。僕は好きな時に帰ってきちゃいけないわけ?」 「そうじゃない。いきなり帰ってこられると、食材が足りないだろ」 荷物を抱えながら入ったリビングでは、案の定、母さんが小さくなって震えていた。 雑誌、新聞、クッション、テーブルクロス…。 散乱しているものは全て陸大が好き勝手に投げつけたものだ。 いつものことだから、訊いて確かめなくてもわかる。 「やめてよ、空大。僕がその女の作ったものを食べるとでも思ってるの?」 スプリンターとして注目されている陸大は成績も優秀で、中高一貫の有名私立校に通っている。 中等部と違って高等部は全寮制だから、去年の春以降、顔を合わせたのは数回程度。 そのお陰で母さんの負担は少しだけ軽くなったけれど、長期休暇以外にも時々帰って来ては家の中を荒らし、母さんを怯えさせる。 「陸大、自分の母親を『その女』呼ばわりするな。第一、食事を作ってるのは母さんじゃなくて俺だ」 「へぇ…空大が作ってるんだ。若しかして掃除や洗濯も? だったらその女は母親じゃなくて、ただの居候じゃない?」 リビングのドアに寄りかかり、蔑むようにくすりと嗤(ワラ)う陸大の目は、俺に同意を求めている。 護る価値もない女でしょう?、と。 けれど陸大がそういう言葉をはっきりと口にすることは有り得ないし、俺が同意することも有り得ない。 だから俺はいつものように気付かなかったふりをする。 ――――悪循環の原因が誰かなんて、きっと誰にもわからない。 台所で手洗いと嗽を済ませ、沸かしたての熱湯でお茶を淹れる。 設定温度が低すぎて肌寒いから、温かい方がいいだろう。 陸大の前を通って母さんの元へ行き、マグカップを手渡す。 「たかひろ…ありがとう……」 「ソファーに座りなよ」 腕を摩りながらクーラーのリモコンを探していると、ふいにヒュン、と風を切る音が背後から聞こえてきた。 「っ!?」 「きゃあ‥ッ!!」 咄嗟に身をかわした瞬間、鼓膜を襲ったのは陶器の割れる高い音。 視界の端を白い破片が飛んでいき、母さんが短い悲鳴を上げる。 驚いてドアの方を見ると、射殺さんばかりに俺を睨みつけている陸大と目が合った。 「あつひろ、」 「そんな女の為に紅茶淹れるなんて、信じらんない!!」 「……紅茶…?」 階段を駆け上がっていく陸大の足音を聞きながら首を傾げる。 何のことだかわからない。 眉を顰めた俺は、けれどソファーに座っている母さんを振り返った刹那、ああそうか、と苦笑してしまった。 「…たかひろ…」 「ごめん、母さん。俺、焙じ茶淹れたつもりだったんだけど、紅茶淹れてたんだね」 確かに色は似てるけど、匂いも透明感も全然違うのに。 何でこんな馬鹿な間違いをしたんだろう。 叶わないと思っていたことが突然叶えられることになって、少し頭のネジが緩んでいるんだろうか。 キスマークも珠樹に指摘されるまで気付かなかったし、感覚がおかしくなってるのかもしれない。 …淹れたのが紅茶だったんなら、陸大が瀬戸物を投げつけたくなるほど怒るのも無理ないな。 「――たかひろ」 「んー?」 「本当に、いいの?」 陶器を拾い集めていた手がとまる。 「…………」 「お母さんの為に貴方が無理する必要なんて、ないのよ?」 「いいんだ」 「‥でも」 「ずっと、望んできたことだから」 カチャカチャと、手の中で鳴る割れ物を見つめる。 形あるものはいつかは壊れる。 そして、壊れたものは二度と元には戻らない。 だから。 「母さんが自分を責める理由なんてどこにもないんだよ」 「たかひろ…」 「母さんは、俺の我侭に付き合ってくれてるだけ。それでいいだろ?」 破片を拾い集めて取り繕うことくらい、許して欲しい。 NEXT * CHAP |