イクチヨモ、カナシキヒトヲ。 近所の本屋でばったり出くわした友人の紹介で美人ママのいるオカマバーに行ってみたり、スタジオでなんちゃってモデルをしてみたり、音大生の練習風景を見学してみたり、友人と一緒に兄貴を苛めてみたり…と。 そんなことをしている内にあっという間に時が過ぎ、今日は入寮当日。 「ええ、これから出ます。――はい。それでは」 俺は通話を終えると携帯電話を背広の内ポケットに仕舞い、玄関に鍵をかけた。 ここに戻ってくるのがいつになるかはまだわからないが、鍵は貴重品としてきちんと保管しておいた方がいいだろう。 失くしたなんてことになれば祖父が嬉々としてやって来るに違いない。 精悍な顔がデレデレとだらしなく歪む様はあまり見たいものではないし、平気で仕事をすっぽかすあの人の所為で側近が浮かべる困ったような表情を見るのも御免だ。 「…何か‥変な感じ」 一階へと下りていくエレベーターの中で鏡に映った自分にぽつりと呟く。 アメリカではラフな格好で授業をしていたからスーツなんて最初の数日しか着ていなかったが、久しぶりに見たスーツ姿の自分を変に思うのではなく、なんと言うか…。 新調したものを着ている所為か、いかにも「今日が初出勤です!」というような初々しさが漂っていて、違和感がある。 新しい職場に行くんだから初出勤であることは確かだが、教職に就いて二年が経っている俺に初々しさなんて似合わない。 まあ、ディックと知り合ってなけりゃ飛び級することもなくて、年齢通り新社会人だったんだろうけど。 ずば抜けて成績が良かったわけでもない俺が飛び級したなんて知ったら、特に中学時代のクラスメイトは驚くんだろうな。 このマンションから高校の最寄り駅までは徒歩と電車で約三十分。校門前まではスクールバスで僅か五分。 半年しか過ごしていないとは言え、行き方や道を忘れるほど馬鹿ではないし、方向音痴でもないから一人で行くことに問題はない。 …が、しかし。 朝のラッシュは辛いだろうからと言うことで、エントランスの前には立派なベンツが待機している。 ――俺はどこぞの坊ちゃんか。 内心でセルフ突っ込みをしつつ、丁寧にドアを開けてくれた運転手さんに挨拶をして後部座席に乗り込む。 これでも一応、不孝息子だという自覚はあるんでね。 余計なことするな、なんて。口が裂けても言わないですよ。 どこか緊張した面持ちで駅へと向かう同年代や中年男性の姿が途切れた頃、俺の目は懐かしい桜並木を映した。 雪のように舞う淡い花弁を眺めながら窓を開けてもいいですかと訊くと、構いませんよという言葉が返ってきたので、遠慮なく下がるところまで下げる。 流石に走っている時には舞い込んでこなかったが、信号で停車した時、数枚の花弁が車内に舞い落ちた。 その内の一枚が俺の手の甲に触れる。 桜は嫌いじゃない。 桜吹雪も綺麗だと思う。 でも、風に吹かれて宙をさ迷う桜色を見ていると、無性に――… 「…、‥忘れられるかよ」 埋 も れ て し ま い た く な る 。 NEXT * CHAP |